
※本HP所収「自然成長型文明に向けて――持続可能な世界を創るための条件とは何か」(1999年)の、
2006年時点での改訂版です。
目次
ポイント2:人口増加に食糧増産が追いついていない――8.25
ポイント4:生物種の絶滅の速度は減速していない――8.28
ポイント5:温暖化はこのままではとまりそうにもない――8.29
ポイント6:温室効果−エネルギー消費−熱汚染ー成長の限界――9.4
なぜとまらなかったのか2:民主主義の未成熟と日本人の自然観――9.1
「欲望は限りなく肥大する」か?――欲望に関する3つの考え方――9.18
自然な欲求には限度がある――欲求と欲望の区別――9.20
自然成長型文明に向けて:改訂開始
2006年8月22日
改訂版 まえがき
それは、第1に、スウェーデンについて学ぶことによって、私の考えていた方向が理想論ではなく現実に可能
であることを確認できたこと、第2に、同じくそのために考えの一部はかなり修正する必要ができたこと、第3
に、環境の危機についてのデータが――基本線は変わらないにしても――かなり古くなっているので、なるべく
新しいものにしたい、という3つの理由によります。
初版 はじめに
私たちの世界が「エコロジカルな危機」にあることは、多くの専門家の方たちが早くから警告してきたとおりで
す。70年代の始めの頃、ローマ・クラブの『成長の限界』(邦訳ダイヤモンド社)やレイチェル・カーソンの『沈黙
の春』(新潮文庫)など、専門家の報告を読んで以来、私も大きな危機感を感じ、この35年、自分の思想的な
最重要テーマの一つとして、いろいろ学び、考えてきました。
といっても、私は、環境問題そのものの専門家ではなく、いわば心理学や意識・霊性・宗教に関わる分野が
専門なのですが、そういう視点から見える、言える、原理的なことがあると思って、いろいろな機会に発言し、あ
る種の運動を提案してきました。
しかし、この35年、発言し、提案するたびに、いろんな人から「岡野さんは、どうしてそんなにあせるんです
か。あせりすぎじゃないですか。あせりすぎると、危険ですよ」と言われてきました(最近はさすがにあまり言わ
れなくなりましたが、それでもいまだに「そんなに深刻じゃないんじゃないですか」と言われることが少なくありま
せん)。ずいぶんたくさんの方から、同じような言葉を聞きました。しかし私も若気の至りで、逆にどうしてみんな
がそんなにあせらないでいられるのかが、最近までよく了解できませんでした。まったく残念なかぎりです。
1998年に20年あまり勤めた出版社を辞めて、サングラハ教育・心理研究所を通じて、執筆や講演といった
広報と、特に人材育成のための活動に専心するのを決めたときにも、ほぼ同じことを、何人かに言われまし
た。そういうことを言ってくださる方は、ほとんど親しい先輩や友人・知人で、私に対してぜんぜん悪意はありま
せん。まったく悪意なく、それどころか善意で、「そんなにあせらなくてもいいんじゃない。物事は、そんなに急に
は動かないよ」と忠告したり、慰めたりしてくれたわけです。
それに対して私は、慰められるよりは、危機感を共有できない――したがって当然行動も共有できない――
ことに、いらだちやもどかしさを感じてきましたが、ようやく、1つ、あまりにも単純なことに気がついたのです。う
かつだったのですが、危機に関してデータを共有できていなかったようだということです。
それに気づいてから、何人にも確かめましたが、私のまわりの善意のある、問題意識もある方でも、ほとんど
の方が、私と共通のデータを読んでおられなかったのです。失礼な言い方になって申し訳ないのですが、多くの
方が地球環境について「なんとなく大変らしい」という捉え方をしていて、危機のデータと予測を正確につかんで
おられないようです。これは、かなり多くの実際に環境運動をしている市民のリーダー的な方たちさえそうでした
から、ほんとうに驚いてしまいました。
つまり、肝心の危機のデータと予測を共有していない方に、危機感だけ共有しようと迫ったら、「どうしてそん
なにあせるんですか。危険ですよ」と言われてきたわけです。これは当然と言えば当然のことです(もっとも、デ
ータと予測を伝えても、「ふーん、そうなんだ。実感ないけどね」という感じで終わる方も少なくありませんが)。
ひとことで「エコロジカルに持続可能な社会・世界を創り出していかなければならない」という言い方をすると、
そういう建て前は、今まともに物を考えている人であれば誰もが認めざるをえない大前提だろうと思います。こ
の建て前を公の場でまともに話をしたら、否定する人はまずいないという状況にあると思います。
ところが公式の場ではなく、例えばお酒の席などで本音を話し始めると、しょっちゅう聞くのは、「それはそうな
んだけれども、無理なんじゃないかなあ」「できないんじゃないかなあ」という声です。それどころか、本音として
言うと「エコロジカルに持続可能な世界全体の秩序を創り出していくということは、しなくてはいけないことなんだ
けれど、できないんじゃないか」という思いを持っている方のほうが、かなり圧倒的と言ってもいいくらい多いよう
な気がします。
そして、もう一歩掘り下げて言うと、「できなくても、何とかなるんじゃないか」「成り行き任せで何とかなるさ」
と、心のどこか本音のところでは思っているところがあるのではないかと思えます。もしかすると、それは、デー
タと予測の厳しさを十分見ておられないために、楽観的でいられるのではないでしょうか。
今言いましたように、公式の場では建て前は例えば「地球にやさしい」とか「持続可能な」といった言葉が語ら
れます。ところが、本音はなかなかそうでもない。そういうふうな建て前とか、ましてや甘い願望とか、実現しな
い夢に終わらないために、まずどれくらい困難かということについて認識を共有するという作業をポイントだけ
でもやっておきたいのです。それからさらに必要な条件についての合意というかたちに入っていきたいと思いま
す。
ごく日常的な言い方をすると、以下のようなデータを学んだせいで、人類の未来が心配で心配で、それで、つ
いあせったように聞こえる提案をしてしまうわけです。そういう気持ちを共有していただけると幸いです。
危機のデータのポイント1:人口問題
2006年8月23日
環境の危機を警告するデータは、『成長の限界』(ダイヤモンド社)、ワールドウォッチ研究所の『地球白書』お
よび『地球データブック』(どちらもダイヤモンド社)、石弘之さんの『地球環境報告』、『地球環境報告U』(どちら
も岩波新書)など、山ほど出ています。
こういうデータはほぼ信用していいだろうと思うのですが、そのデータのしかもポイントをきちんと押さえると、
いま私たちがおかれている状況がきわめて困難だということが、感覚としてではなく、認識としてはっきりしてき
ます。
人口問題
まず、今の世界全体が抱えている問題の1つの大きなポイントは人口問題のようです。
人類の歴史の中で人口問題を見てみると、国連人口基金の推計では、紀元前後(2千年前)が2.5億人ぐら
いと推測されています。それから倍になるのに1600年かかっています。1600年ごろ5億人ぐらい。ところが1
0億になったのは1830年くらいだとされています。つまり、230年で倍、というか倍倍です。それから1930年
には20億、つまり100年でさらにその倍になったわけです。1070年に40億、これは45年で倍になっている
わけです。国連人口基金のHPに掲載されている以下のグラフをご覧になればおわかりのとおり、すごい曲線
を描いて人口が増加している状況にあります。

1999年が60億。国連では、かつて2020年に80億という推測をしていましたが、いま幅をもたせて2050
年に91億くらいと推測しているようです。いずれにせよ、2020年とは14年後です。そこまで人口が増えるの
にあとわずか14年です。90年代半ばにピークを迎えて以降、パーセンテージはわずかに下がったそうです
が、それでも毎年7千万6百万人くらい増え続けているということです。
『成長の限界』というレポートを出したローマクラブは、1968年に集会が行なわれて70年に発足した、財界
人、政治家たちの地球の未来を考える研究グループです。72年の段階でレポートを出しましたが、その時点
の予測が2000年に56億という予測でした。ところが、実際には95年にすでに56.9億になっています。つま
り予測よりも5年早く56億を超えてしまったわけです。
『成長の限界』の序論に、国連事務総長のウ・タントさんが、そういう予測に基づいてした、69年の発言が載
っています。
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「私は芝居がかっていると思われたくはないけれども、事務総長として私が承知している情報からつぎ
のような結論を下し得るのみである。すなわち、国際連合加盟諸国が古くからの係争をさし控え、軍拡競
争の抑制、人間環境の改善、人口爆発の回避、および開発努力に必要な力の供与を目指して世界的な
協力を開始するために残された年月は、おそらくあと十年しかない。もしもこのような世界的な協力が今
後十年間のうちに進展しないならば、私が指摘した問題は驚くべき程度にまで深刻化し、我々の制御能
力をこえるにいたるであろう。」
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これは、69年時点の発言です。「芝居がかっていると思われたくはないけれども、データに基づいてこう言わ
ざるを得ない」と国連事務総長が言っており、そういったことを踏まえた学者たちの警告にもかかわらず、人口
に関しては(も)まったく抑制できないまま35年を経たということです。
まずこの一事だけを取り上げても、私たちがおかれている状況がいったいどういうことなのかが、基本的に認
識できると思います。
ただ日本では、少子化現象が進んでいて、やがてこれから人口が減るだろうと言われていて、あまり深刻感
がありません。
しかし、これは世界レベルでは当然、これだけ食糧増産をこれからやっていかないと、億単位の餓死者が出
るということです。しかも、2020年に向けて、あと14年しか余裕がないということです。
ところが、食糧増産の基礎である生産可能な土地の面積はどんどん減ってきています。
ぜひ、みなさんにも見ていただきたいのですが、人口の増加と生産可能な土地の減少が、時々刻々わかる
WORLD CLOCKS というサイトがあります。これによると、人口は1秒間に3人増え続けているのに対し、生産
可能な土地は7.67 秒に1ヘクタールの割合で失われていっているとのことです。
ご自分の目でこの時計を見ていただくと、事態がきわめて深刻であることを実感していただけるのではないか
と思います。
しかしあらかじめ言っておくと、環境問題はきわめて深刻ですが、にもかかわらず私たちが正確な認識
に基づいた適切な行動をすることができるならば、希望はある、と私は考えています。危機の認識を共有
したいのは、希望に向かう行動を共有するための準備として不可欠だからなのです。みなさんを脅して、
無力感や絶望感に陥れるためではありません。
ポイント2:人口増加に食糧増産が追いついていない
2006年8月25日
前々回のブログでお話しした状況に対して、穀物の収穫量がどうなっているか、おおまかに見てみましょう(こ
れは、第一版1999年時点に把握したデータのまま)。1050年には6億3000万トン、75年に12億3000万
トンと約倍増しています。96年推定では18億4000万トン。つまり50年からいうと3倍に増えています。人口
は50年から96年で約2.5倍です。それに対して食糧は3倍に増産できています。
これなら大丈夫じゃないか、という感じがするかもしれませんが、実はこれは森林を耕地に転化し、膨大な化
学肥料と農薬を費やして土壌汚染をやり、たいへんな量の地下水資源を汲み上げて灌漑をしながらここまでき
たわけです。最近は、これに遺伝子組み換えという危険な試みも加わっています。
つまり環境の汚染、破壊、資源の浪費、生態系かく乱の危険を前提にしてここまできたということです。
これから毎年8000万人(これは、7600万人になりましたが)増えていくということは、穀物だけでも2600万
トン(これは、2470万トンになります)必要だということですが、すでに生産可能な土地は減少しつつあり、水資
源、土壌の汚染流出は許容の限界にきているというのが、国連食糧農業機関その他信用していいと思われる
機関の認識です。
必要な食糧は穀物だけではありませんが、海洋資源も基本的には同じような状況にあるようです。
ごく最近のFAOの発表を見てみると、以下のような状況です。
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「世界の8億5200万人の人々が十分な食料を作り又は購入する力を欠いている」(FAO日本事務所・
プレスリリース、2005年12月7日*)
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「農産物の生産及び消費は、先進国よりも開発途上国でより増加している。しかしながら、最貧国にお
いては、農産物生産の成長率が人口増加による農産物需要の増加に追いついていない、と4日にOEC
D−FAOが農業見通しを発表した。」(FAO日本事務所・プレスリリース、2006年7月4日*)
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「2006年7月 No.2発行 世界穀物在庫急減の予測:多数の国で食料危機継続
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FAOは7月発行の"Crop Prospects and Food Situation"(「穀物見通しと食料情勢」)の中で、世界の食
料在庫は2006年に急減し、その原因は穀物の収穫減と需要の増大によると述べている。」*
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つまり、FAOなど各機関のたいへんな努力にもかかわらず、人口増加に食糧増産が追いつかないという状
況は克服できていないのです。
ポイント3:森林は減少し続けている
2006年8月26日
このように例えば森林を耕地に転換しながら食糧増産をやってきて、それがほぼ限度にあるという状況の中
で、「地球にやさしい」とか「地球の緑を守る」といった言葉が、とても希望があるかのように語られていますが、
毎年地球の森林がどれくらいなくなっているか、データをご存じでしょうか。
国連食糧農業機関やアメリカ政府の推定によると、1100万から2000万平方ヘクタールの森林が毎年なく
なっています。日本の国土総面積が約3670万ヘクタールですから、つまり日本国土の3分の1ないし多めに
見積もると2分の1以上の緑が、毎年、なくなっています。
毎年ということはつまり森林の減少は止まっていない、ということです。
2005年の国連食糧農業機関の資料によると
「全体としての森林領域は減少し続けている――しかし減少率は減速しつつある」とのことです。
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「主に森林の農耕地への転換による非森林化は、一年当たり1300万ヘクタールという驚くべき割合で
続いている。同時に、植林、景観修復、森林の自然的な拡大によって、森林領域の純量の減少は顕著
に低減されている。森林領域の変化の純量は、1990−2000年の間の毎年マイナス890万ヘクター
ルから下がって、2000−2005年の間は毎年マイナス730万ヘクタール(ほぼシエラ・レオネやパナマ
ほどの広さの面積)と推定されている。」(Global Forest Resources Assessment 20005, Executive
Summary)
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様々な努力によって、幸いにして減少率は減速しつつあるのですが、しかしそれにしても依然として減少し続
けている、止まっていないという事実が問題です。
人口増加に関しても止まっていないし、森林の喪失についても止まっていないのです。
こういう問題が世界的レベルでのデータに基づいて警告されはじめたのが、早めに見るとスウェーデン政府
によるもので1960年代半ばです。ローマクラブレポート『成長の限界』と見ても、72年です。すでに40年近く
経っているのです。
非常に残念なことに、この40年近くの間、事態は何もよくなっていません。
全体としての地球環境は、悪化し続けている、のです(これは、シンポジウムの呼びかけ人3人の共通認
識です)。
こういう言い方をすると、環境関係の運動を一生懸命やっている方にすごくいやがられてきました。「私たち
が、こんなに一生懸命やっているのに、何もよくなっていないなんて」と。
何だか、ネガティヴで理屈っぽくて意地悪で人の善意を理解できない人のように思われて、かなり損をしてき
たような気もしないではありません。
そこで最近は言い方を換えて、「いろいろ努力はなされていて、環境破壊のスピードを遅くする効果はあった
とは思いますが、しかし基本的には止まっていない、と言い換えましょう。データ的・数字的にはそう認識せざる
を得ませんよね」と言うと、いやいやながらわかってくださる方が多くなってきました。
(しかし、今でも「そういう話は聞きたくない、認めたくない」と心情的に反応して否認される方も少なくないよう
です。私だって、できれば認めたくありませんけどね。)
あと、より詳しいのデータは、例えばワールドウォッチ研究所『地球データブック』をしっかりと見ていただくと、
私たちがどういう状況におかれているのかはっきりわかっていただけると思います。
私たちが、気持ちの問題として「地球にやさしい」生き方をしたいと思うのは、出発点としてとても大切です。
しかし、それにとどまらず、実際に地球環境の悪化をまず止め、それから改善していくには、まず、どういう状
況になっているのか、どうしてそういう状況になったのかしっかりと知る・認識しておくことが必要ではないかと思
うのです。
ポイント4:生物種の絶滅の速度は減速していない
2006年8月28日
近代以降、とくにこの百年、とくにこの3,40年の間に行なってきた人間の産業活動による環境破壊汚染の
結果だと推測される、他の生物種に対する影響がどれくらいかも見ておきたいと思います。
みなさんは、世界の生物種は毎日何種類ずつくらい絶滅しているとお思いでしょうか?
米国科学アカデミーの発表によると、毎日――間違えないでいただきたいのですが、毎年ではありませんし、
毎月でもないのです――毎日約200種の生物が消滅しているそうです。そして、それはずっと止まっていない
ということです。
これはどういうことを意味しているかを、きちんと受け止めないといけません。「なんとなくたいへんらしい」「私
たちにできる範囲の努力をしましょう」といったアプローチでは、この40年間、よくならなかったのです。
ですから、環境に関わる思想と行動の発想を根本的に変えなければいけないと私は思っていて、根本的に変
えるための提言をしてきました。
地球の生物種は確認されているところで、約150万種だそうです。未確認のもののほうが多いらしく、500万
から3000万種ぐらいいるのではないだろうかと推測されています。毎日200種ずつ滅びていくと、2050年こ
ろまでに絶滅種は200万種にのぼるだろうといわれています。現存が確認されているのが150万種です。確
認されている数よりも多い数が滅びるだろうということを、米国科学アカデミーが公式の発表として予想してい
るのです。
以上は、1998年の第一版の時に把握した数字でした。
今回、再確認のために国際自然保護連盟(IUCN日本委員会)の最新の記事を見てみると、状況は以下の
ようでした。
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レッドリスト2004には15,589種の絶滅危惧種が記載されている。脊椎動物、無脊椎動物、
植物、菌類を含む非常に幅広い分類群からなる種が記載されている。しかし、世界の190万種の
既知種のうち3%以下しか科学的データがなく、この15,589という数字は絶滅危惧種総数の最
も低い値といえる。……
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……近年の絶滅の割合は、過去に記録されている絶滅の割合を遥かに超えている。知られてい
る鳥類や哺乳類、両生類の過去100年にわたっておこった絶滅の確率は、現在の絶滅のスピー
ドが過去の記録にある絶滅のスピードの50倍から500倍もの早さで進んでいることがわかる。も
し絶滅した可能性のある種を加えると、自然の絶滅のスピードの100倍から1000倍にまで上
る。これは極端に控えめな試算である。というのも記録のない絶滅を全く考慮していないからだ。
この試算は非常に控えめなものだが、現在の絶滅のスピードは、少なくとも過去の割合を2倍から
4倍のオーダーとなっている。
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生物種の絶滅に関しては、止まっていないだけではなく、絶滅のスピードの減速さえもできていないようです。
この他あげていけば、地球温暖化、オゾン層の破壊、放射能汚染、環境ホルモンなどなど、ずいぶんいろい
ろな、深刻なデータがもっと山ほどあるのですが、このくらいのポイントをあげただけでも、私たちがどれくらい
絶望的な状況にあるかということを数値で確認していただけると思うのです。
くり返しますが、1969年、「あと10年しか余裕がない」と国連事務総長の警告があって、すでに35年経った
のです。これが今私たちのおかれている状況だということです。
私たちが、こうしたデータを知らないだけで、「それほどたいへんではないのではないか」「何とかなるのでは
ないか」「できることをしよう」という発想やアプローチにとどまって、結局、実際には環境の悪化を止めることが
できていないという状況に満足したりあきらめたりできないのなら、「では、どうすれば、ほんとうに止められるの
か?」と考える必要があるのです。
国際自然保護連盟の評価によれば、スウェーデンは今世界でいちばん「エコロジカルに持続可能な社会」に
近づきつつあるそうです(それでも、まだ達成はしていないというのですから、課題は大変です)。
国単位で、環境の悪化を本気で止めようとしており、実際の効果をあげつつあると評価されているのです。
エコロジカルに持続可能な世界を創り出したいという願いをもつ人間にとって、今、スウェーデンはいちばん
のモデルになる、ということでしょう。
昨日一日を使って、私たちはシンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンに学びつつ」へ
の参加呼びかけのDM450通以上を、政治家、学者、環境運動家などの方々に送ったところです。
もうしばらくしたら、一般の参加者の方への呼びかけも始めますので、お待ち下さい。
ポイント5:温暖化はこのままではとまりそうにもない
2006年8月29日
先日、シンポジウムの発題者の一人である国立環境研究所の西岡秀三先生にお会いしてきました。
西岡先生は、いわゆる地球温暖化・気候変動に関して日本を代表する研究者のお一人です。
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……工業化以前から0.6度の全球平均温度上昇が見られ、大気中の温室効果ガス濃度が上昇して
いることは事実と誰もが認める。……懐疑論者の問題提起は相変わらず続いているが……1970年代
から大規模に開始された地球科学研究の集積、多要因を考慮したシミュレーションの結果からは、化石
燃料の温室効果ガスが気温上昇の原因であるとの解釈が確定されてきている。
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氷河や永久凍土が溶け始め、南に住んでいるはずの生物が北に移動し始めており(先日西岡先生も出演し
ておられたNHKの番組では、沖縄や八丈島のエイが瀬戸内海に侵入してきていること、沖縄のチョウが神奈
川県大磯まで来ていることなどを報道していました)、世界中で異常気象が発生しています。
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)では、「こうした変化が専門家の予想以上に早く進展しつつあること
に危惧の念を示した(2006年1月)。」とのことです。
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気候変化で確かなことが一つある。大気中の温室効果ガスを増やし続けている間、気候は変化し続け
る。気候変化をとめるには、大気中の温室効果ガス濃度をどこかで一定にする、すなわち年間の排出量
と吸収量を斉しくせねばならない。地球の吸収量(陸域と海洋による)に等しくするには今の排出量
を半分にまで減らす、大幅な減少が必要なのである。
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温室効果ガスの「今の排出量を半分にまで減らす」ことは、したいかしたくないかとか、できるかできないかで
はなく、ほんとうに持続可能な世界を創り出すためには必須の条件なのです。
大量生産−大量消費−大量廃棄――廃棄されるものには温室効果ガスも含んでいます――というタイプの
「経済成長」は、温暖化問題からしても、原理的にいって不可能ではないでしょうか(西岡先生がそこまで言って
おられるわけではありませんが)。
しかし、「改革なくして成長なし」が日本政府の方針であり、当面、すぐにはこの原理的な事実を飲み込むこと
ができないでしょう、はなはだ残念ですが。
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気候システムには大きな慣性がある。今すぐ排出量を地球の吸収量にまで減らし、大気中の温室効果
ガス濃度を今のままに保ったとしても、これまで平衡温度まで上げ切れなかった熱慣性分の上昇が今後
も続き、究極にはさらに1度上がる。減らさないで今の排出量を維持し続けると、究極的に2〜6度の上
昇となる……。今の温暖化傾向からはもう逃げられないのである。少なくともこれからの数十年間、世界
は温暖化した地球の上で生きていくことになる。
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この温暖化傾向にブレーキをかけることが出来るだろうか?気候の安定化に向けて、危険な目に遭わ
ぬままソフトランディング出来るだろうか?答えは多分ノーである。このままでは危険なレベルを超えて温
暖化が進む。そして、その後でそれをなんとか安全なレベルに押さえ込むための努力をすることになる
だろう。危険なレベルを一旦は超える、いわゆるオーバーシュートしてしまう可能性は必至のようで
ある。オーバーシュートしっぱなしでは破局に進む。それからも懸命な抑止努力がいるのは当然で
ある。
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これは、悲観的とか楽観的とか評することのできない、客観性をもった予測です。
これまで、様々な心ある人々の行なってきた努力は、オーバーシュートをとめるには不足していたらしい、とい
うほかありません。
それは、不足していたからダメだというのではなく、もっと、そして適切な努力をする必要がある、ということで
す。
西岡先生は、きびしい予測をしておられますが、しかし絶望はしておられません。
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いつになったら温室効果ガスの本格的な削減が始まるのだろうか?人間社会のさがから見て、温暖化
の被害が目で見て明らかになるか、突如起こりかねない大災害への恐怖を感じないと、本気の削減には
進まないであろう。ただ、これからの10〜20年の間に、科学の観測と予測がこれまで以上に警告を発
するであろうし、これに応じて危険の切迫感は世界にみなぎることは予想できる。
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望まれることでは勿論ないが、気候変化の場合、主として途上国のあちこちから報告される毎年の干
ばつ・飢饉・水不足のようなじわじわ進む被害の報告よりも、欧州の洪水頻発や14兆円の被害を出した
カトリーナのような先進国で起こる大災害、さらにはabrupt change といわれる、気候システムの構造を
変えてしまうような変化(海洋熱塩循環の停止、凍土地帯のメタン放出)あるいは、起きれば確実に被害
を長期にわたって及ぼすグリーンランドや南極氷床の融解への懸念が、global participation に向けた交
渉を加速する可能性が高い。……こうした abrupt change の兆候が様々に確認され警告されてきて、よ
うやく世界中で温室効果ガスの排出利用を削減しようという機運が盛り上がる。いよいよ世界は画期的
な低炭素社会への覚悟をせねばならない。
|
しかし、そうしたきびしいプロセスを経ながらも、最大の努力をして対応したとき、2050年頃から、温室
効果ガスの排出が削減の方向に転じ、「今世紀末には排出量が吸収量に等しくなり、気候も安定するだ
ろう。」といっておられます。
とはいっても、それは「最大の努力をして対応したとき」であって、努力なしや努力不足では、そうはならない、
ということでもあります。
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究極の持続可能世界とは、入りと出がバランスする世界である。そのトップを切って、大気への
温室効果ガスの出入りを等しくすることに成功しそうだ。やれば出来る。22世紀の歴史書は、人
類生存に成功した輝かしい21世紀の努力をたたえ、エネルギーに頼らない豊かな生活をうちた
て、持続可能な社会へ導いた世紀と記すであろう。
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後の世代のために、おどろくほど長い展望をもって、最大限の努力をすることが、今の私たちに求められて
いる、と思います。
しかし、よく考えて見ると、それはいのちをより豊かにして次の世代につなげてから世を去るべき「ご先祖さま
予定者」としては当然の任務なのではないでしょうか。
それは大自然・コスモス・天の命ずること、つまり私たちの天命だといっていいと思います。
ポイント6:温室効果−エネルギー消費−熱汚染−成長の限界
2006年9月4日
環境問題に詳しい理系の方はすでにご存知だとは思いますが、文系、あるいは一般市民の中には意外には
っきり認識しておられない方も少なくないと思うので、念のためにもう1つ、「成長の限界」についてはっきりした
根拠だ、と私が思っているポイントをあげておきたいと思います(詳しくは、麻布学園の山賀進氏のWeb 資料が
とても参考になります。)
地球の温度は、大まかにいえば太陽から放射されるエネルギーと、地球から放散されるエネルギーのバラン
スが取れたところで決まります。
ところが、太陽から来るエネルギーで単純計算すると、地球の温度はマイナス18℃になるはずなのに、実際
の温度は約33℃も高い約15℃(平均)なのだそうです。
なぜそういうことになるかというと、地球の大気には水蒸気や二酸化炭素などが含まれていて、それらの気体
には「温室効果」があるからです。
「温室効果」というのは、太陽からの放射エネルギー(主に可視光線)は通し、地球から地球外空間に出てい
こうとする放射エネルギー(赤外線)を保存して、熱を保つということです。
そのために、地表から大気圏にかけて熱が保存され、単純計算のマイナス18℃よりもはるかに温かい、たく
さんの生命が生きることのできるような温度になっているわけです。
そういう意味では、水蒸気や二酸化炭素の「温室効果」はとても有難いものだったのです。

温室効果の模式図:東京大学気候システムセンター(http://www.ccsr.u-tokyo.ac.jp/jondanka/jwarming1.
shtml#part1)の記事より
ところが、人間が経済活動や日常生活のためにエネルギーを消費すると、それは最終的には熱になって大
気圏に排出されます。それを「廃熱」といいます。
廃熱が環境に悪影響を及ぼすことを「熱汚染」と呼びます。
そして、熱汚染が限度を越すと、太陽からの放射と地球からの放散のバランスが崩れ、地表の温度は「熱暴
走」と呼ばれるような急上昇を始めます。
そうなると、海水はぜんぶ蒸発してしまい、石灰岩もすべて分解されるという状態になってからやっと、もう一
度バランスが取れるのだそうですが、その時には気圧が300〜320気圧、温度も200℃という、生物が生き
ていくことのできない状態になっているだろうといわれます。
人類が、たとえ核融合や水素エネルギーといった、その他の点では「クリーン」で無限に使える夢のエネルギ
ーを開発したとしても、それらは使われた結果として必ず「廃熱」になり、環境を「熱汚染」していき、熱汚染があ
るレベルを超えてしまうと、地球は「熱暴走」の状態になり、生態系は全滅するということになるでしょう。
シンプルに譬えると、温室の中で必要以上にいつまでも火を焚き続けると、中の空気が熱くなりすぎ、花や野
菜が茹でられて萎れ、やがて枯れてしまうようなものです。
だから、そういうはっきりとした根拠があって、エネルギーの消費を増大させ続けるような無限の成長は
原理的に不可能だ、と私は考えているのです。
そういう意味での「成長の限界」は、大自然の犯すことのできない、犯したものは必ず厳しく罰せられる
掟なのだ、といってほぼまちがいないでしょう。
(とはいっても、これはあくまでも「科学」的根拠であり、科学の語ることは常に反論しうる仮説ですから、反論
はありうるでしょう。私は、反論を検討した結果、仮説がまちがっていると思ったら、いつでも訂正するつもりが
あります。)
そういうわけで、私は、個人的な敵意や憎しみはまったくないにもかかわらず――というより、だからこそ――
あえて現在の日本の政治の路線を批判せざるをえないのです。1) 2)
とはいえ――この後で、かなり長くお話しすることになりますが――コスモスは自己組織化・自己複雑化という
意味では成長し続けるものですから*、それに沿いながら人類の生活も成長するというタイプの「自然成長型
文明」というのは構想しうる、と私は考えています。
ぜひ、続けてお読みいただき、ご意見をいただけると幸いです。
全体状況は悪化しているが希望もある!
2006年8月30日
ここで確認を共有したいのですが、すでに60年代半ばに警告はあったし、さまざまな人やグループが誠実で
真剣な努力を重ねてきたことはまちがいありません。
しかし、地球環境は全体としては悪化しています。まず、このことをはっきり認識しなくてはいけないと思いま
す。
お話ししてきたように、最新のデータを見ても、全体としての地球環境はさらに悪化するばかりで、近い将来
での改善の見込みは立っているようには感じられません。拾っていくと目の前が真っ暗になりそうな話ばかりで
す。
さまざまな真剣で誠実な努力が、悪化の速度を遅くするうえで大きな貢献をしたことは確かですし、一生懸命
やってこられた方にケチをつけようという気持ちはまったくありません。しかし、冷静にみると、にもかかわらず
全体状況はあきらかに悪化しているのです。
かつて私の研究所で、大井玄先生に講座をもっていただいて、1960年代には世界で4番目の面積があった
アラル海――カスピ海の東にあり、カザフスタンとウズベキスタンの国境にまたがっています――が干上がって
なくなりつつあることを、現場で見てこられた体験を通して報告していただきました。
また、大井先生からコピーをいただいたペンタゴン(アメリカ国防省)発表のレポート(鳥取環境大学環境問題
研究会訳)によると、温暖化→氷河の溶解と降水量の増大→北大西洋の淡水化→暖流であるメキシコ湾流が
止まる→ヨーロッパのシベリア化→食糧不足に伴う世界規模の政治の不安定化、紛争の危険が増大している
ことが予測されています。しかもメキシコ湾流が止まってしまうのは、早ければ2010年頃かもしれないというの
です。
深刻にならざるをえない事例は、この他、挙げていけば無数にあります。そうした状況に対して、「今、多くの
環境学者たちは非常な無力感に陥っています。私もそういう気持ちがします」と大井先生はいっておられまし
た。日本でもっとも豊富で正確なデータに接する立場におられた方の言葉は、非常に重いものがあります。
しかし、それに対して筆者は、あえて3つのことを申し上げてきました。
1つは、「無力感」に陥る気持ちは十分、十二分にわかりますが、でも論理的・正確に捉えると、力が「ほとん
どない」は、「まったくない」ではなく、「すこしはある」ことであり、そのことをちゃんと確認すれば、まず無力感か
ら「微力感」くらいにはなるはずではないか、ということです。論理療法的に言えば、「無力感」は、非論理的な
考え方から生まれた不適切な否定的感情ということになるでしょう。
そして、私はいつもいうのですが、「微力でも協力すれば強力になる」のではないでしょうか。
さらに2つめは、それだけを集中的に見れば「ある」、つまり環境問題解決のための力や方策はまちがいなく
あるのであり、しかも確率的には―つまり比較すると―きわめて低いとしても、潜在的には大きな可能性を秘
めていると考えることもできるのであり、私たちはその可能性に賭けるほかないのではないか、ということです。
「大きくて自分一人の力ではどうすることもできない」と感じられるような危機(あるいはその情報)に直面した
時、私たちが取りうる態度の選択肢がいくつかあり、どんなに小さくてもあるのならその可能性に賭けるという
のが最善の選択だ、と筆者は考えています。
それに関わって、筆者がこれまでにご紹介してきたような危機のデータを知ってから、それをまわりの方に伝
えようとして受けた反応には、典型的に次のようなものがありました。
@「そういう話を聞いていると気持ちが暗くなるだけだから、聞きたくありません」。
これは、非常に多く見られるもので、無視・逃避、あるいは抑圧という態度です。
A「今までもいろいろ大変だといわれてきたけど、結局どうにかなってきたじゃないですか。今回もおなじじゃな
いんですか?」。
これは、危機の過小評価、たかをくくるという態度です。
B「個人でどうにかできるようなことじゃないでしょう。人類が滅びるとしても、それはそれでしかたないんじゃな
いですか?」。
これは諦め、責任放棄という態度です。
C「何かしたいんですが、私に何ができるかわからないんです」。
これは、問題意識を持っていながらまだ解決の方向性が見つからないという状態の場合もありますが、あえ
て率直にいうと、思考停止、勉強不足にすぎないこともあります。
D「私は環境には気を使っていて、〜をやっています。これ以上、何をすればいいんですか」。
これは、いわゆる「環境派」の市民の方によく見られるもので、環境問題は、近代という時代、近代産業主義
の行き詰まりを示しているということ、地球規模の問題だという時間と空間のスケールへの認識不足であること
が多いのではないでしょうか。
いうまでもありませんが、これらのどの態度も問題解決にはつながらない、と筆者には思えます(こういうこと
をはっきりいうから、嫌われるんでしょうね、あーあ)。
「大きくて」=地球規模で、「私一人の力ではどうすることもできない」=個人は微力なのなら、「地球規模の影
響力のある強力な人間集団を組織して解決に当たる」というのが、唯一ありうる問題解決への道だと思いま
す。これは、理の当然だと考えますが、いかがでしょう。
では、地球規模の影響力のある強力な人間集団はあるでしょうか。『サングラハ』第75号(2004年5月)で
は、以下のように考えていました(とても残念ながら情報不足=勉強不足でした)。
*
…資本主義経済―だけでなく社会主義経済を含む近代産業主義経済―には、一時的かつ局地的に―つま
り近代、先進国で―貧困を克服できたというプラス面はあっても、原理的にいって、エコロジカルに持続可能な
社会を構築できないという決定的な限界があると思われます。(中略)
まず環境破壊について簡単に言えば、原因は近代の産業主義にあると思われます。そして、資本主義国で
は産業は国に所属した私企業が担っており、社会主義国では国家が産業をコントロールすることになっていま
す。つまり、全体としての産業主義を変更することのできるのは国家だけであって、民間のエコロジー運動でも
なければ国連の環境機関でもありません。
もちろん国家主導でやったとしても、近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移
行するのは、きわめて困難です。しかし、他に道がないとしたら、その困難な道を志向するほかない、と筆者は
思うのです。(中略)
筆者は、これまでも公言してきたとおり、まず日本を自然成長型文明を志向する国家にしたい、そしてそうい
う日本が世界のオピニオン・リーダーとして世界に働きかけることによって、世界全体を自然成長型文明へと
移行・変容させたい、と考えています(略)。
これは、どんなに大げさな夢のように聞こえても、ほとんど不可能なくらい困難に見えても、ほんとうによりよ
い世界を望むのなら、他には考えようがないのではないか、と思っています。
*
しかし、幸いなことに、「近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行す
る」という課題に、国家単位で取り組んでいる国があったのです。
その代表がスウェーデンですが――繰り返し紹介してきましたが、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続
可能な社会」』(朝日選書)をお読みになっていない方はできるだけ早くお読みになることを強くお勧めします―
―それだけではなく、北欧諸国はみな「持続可能な社会」を政府主導で目指しているようです。
それは、北欧諸国にとって、必ずしも「大げさな夢」でも「ほとんど不可能なくらい困難」でもなく、今実現しつ
つある目標なのです。
そして、特にスウェーデンは、これまでも国連の環境政策に大きな影響を与えてきましたが(例えば、1972
年、スウェーデン・ストックホルムでの国連環境会議開催!)、さらにEU加盟後はEU全体の環境政策にも大き
な影響を与えつつあります。
環境(と経済と福祉の巧みなバランスの取り方)に関して、スウェーデンはこれからますます、世界のオピニオ
ン・リーダーになってくれることでしょう。
スウェーデンの現状を知ったことは私にとって、「希望ある衝撃」でした。
その衝撃が、「日本も〈緑の福祉国家〉(=エコロジカルに持続可能な国家)にしたい! スウェーデンに学び
つつ」のシンポジウムの企画につながっています。
まず日本がしはじめたのではなく、「日本も…したい!」であるのは、日本人としてはちょっとだけ残念です
が、そんなことにこだわっている場合ではありませんね。
どこの国が掲げたのであれ、希望は希望です。
なぜとまらなかったか1――日本の場合
2006年8月31日
そこで次に、これまでなぜとまらなかったか、私の推測をお話しします。
まず日本について言えば、政治家、官僚、経済人の多数、つまり社会のある意味で主流にある方たちは、多
くの市民のみなさんと同様、これまで紹介したようなデータをいちおうは見てはおられる(?)ものの、まさに「成
長の限界」はもはや遠い未来のことではなく現実の問題になっていることを理解するところまで突き詰めて
読み取っておられないように思えるのですが、どうでしょうか。
ですから、いろいろな政党の政策課題を見ると、8番目とか10番目とかぐらいに環境と出てくるのだと思いま
す(ごく最近は少しましになりましたが)。
警告から35年あまりたった今でも、日本には環境の問題を最優先課題にしている有力政党が一つもありま
せん(みどりの会議も前回の参院選で議席がゼロになり、代表の中村敦夫氏は政界を引退しました。)
学者やマスコミ関係者のみなさんは、警告、批判、問題提起はすごくするのですが、それでとどまってしまい
がちです。もちろんねばり強く長年市民運動に関わってきた方もいらっしゃいますが、運動に関わらず客観的
な立場を保って、学者として冷静な知識や認識をお伝えする、警告するという姿勢を堅持する学者さんが多い
ようです。
そして市民は何をしているかというと、ほとんどが「みじかなできることからする」というスタイルのリサイクルや
ネットワーキングや、場合によって批判や抗議行動です。
これはつまり、日本では、持続可能な社会を創造することを本気で最優先課題とする人やそういう集団が社
会の主導権を握っていないということです。それは、ただ主導権を握れなかったというだけでなく、握ろうという
しっかりとした意思がなかったからだ、と私は見ています。
これは、スウェーデンやその他の北欧諸国に比べて、あまりにも大きな違いです。前回も述べたように、スウ
ェーデンは政府=国家が主導して「エコロジカルに持続可能な社会」を目指しているのです。
なぜそういうことになったのかというと、70年までの日本の革新運動、市民・学生運動が70年で大きな挫折
を体験し、そのまま回復していないということがあるでしょう。
それ以後、心ある市民ほど、政治不信というか、深刻な政治・運動・組織アレルギーに陥っていると思いま
す。
多くの市民は、本格的に大きな運動や組織を立ち上げることをきわめて嫌って、ネットワーキング方式で一生
懸命いいことをやってきたのですが、決して本気で政治・経済の主導権を握ろうとはしてこなかったように見え
ます。
しかしこのことは、あえて言うと、日本の民主主義がきわめて未成熟だということを表わしていると思います。
今さら言う必要もないほどのことですが、デモクラシーの原語のギリシャ語は「デーモス・クラティア」です。「ク
ラティア」というのは権力ということです。民主主義というのは、「市民が権力を握る」ということです。民主主義、
「人民が主になる」というと言い方がソフトになってしまいますが、本来の民主主義は「市民が権力を握る」、「市
民の代表が責任をもって権力をになう」ということです。
日本国憲法の前文では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来
し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」となっています。
つまり国の政治というものは、@国民に信託された「国民の代表者」がA「国民の福祉のために」B
「権力を行使する」ものだ、ということです。この3つの要素のどれが欠けても、政治は歪んでいきます。
そして、現在の日本の市民――はっきり「国民」という言葉を使うのに抵抗があり、こういう言い方になりがち
なところにすでに大きな問題が潜んでいると思いますが――というより、「国民」の多くが忘れていることは、@
Aを大前提として、しかしはっきりBがなければ、国政=国全体の政治は動かないということです。
国政レベルの対策なしに、環境問題が解決するとは思えません。さらに国レベルの対策さえできないのに、
地球環境全体の悪化がとめられることはありえないでしょう。
それに対し、まず国政レベルの政策が実施され解決に向かいつつあり、さらに世界全体に影響力を及ぼそう
としているのがスウェーデンです。
しかし、今日本のいわば良識派の市民=国民は「権力をもつとすぐ腐敗するのだ」と思い込んでいて、「権力
は握らないほうがいい、権力に対して絶えず距離をおいて、いつも批判的な立場で抗議行動をする」というスタ
イルをとります。そして、ネットワークを広げているとそのうち世の中がよくなるのではないかと思って35年やっ
てきたけれども、よくならなかったのです。少なくとも、こと環境についてはよくなっていない、と先にあげたデー
タを元に私は思います。
つまり、心ある国民が、国民の代表として、国民の利益のために、権力を握るということをはっきりと自覚的
に課題にしなければ、先に進めないのです。
政治・運動アレルギーを克服しないかぎり、日本人は先に進めません。
ところが、戦前から戦後にかけて、一貫してデモクラシーを成熟させ続けてきたスウェーデンでは、「ほとんど
腐敗しない権力」が実現されているようです(岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書、参照)。そういう事実
をよく学ぶことによって、日本人の政治アレルギーも克服できるのではないか、と私は期待しています。
なぜとまらなかったか2:民主主義の未成熟と日本人の自然観
2006年9月1日
60年代の思想・ジャーナリズムの世界でも「民主主義の未成熟」が問題にされたことがありました。最近で
は、あまり話題にもならないようですが。
考えてみると、この40年ちかく、日本では民主主義は未成熟のままだといってもいいようです。
選挙の投票率が、ひどいと25パーセント程度のことがあるのですから、これでは代議制民主主義になってい
ないといってもいいでしょう。
別の言葉でいうと、日本人の多くはいまだに「庶民」または「大衆」であって、ヨーロッパ型の「市民」にはなっ
ていないということでしょう。
江戸時代の「民」は、政治のことはもちろん「お上」任せで、日々の暮らしのことで精一杯、また暮らしのことに
専心することがいいことだ、と教えられていました。
「依らしむべし、知らしむべからず」という言葉があったとおりです。
この江戸の庶民教育の影響が戦後の民主主義教育の不徹底のため今日まで尾を引いている、と考えて間
違いないでしょう。
それに加えて、日本人に独特の自然観の影響もあるのではないかと思われます。
これは、筑波常治氏の『自然と文明の対決』(日本経済新聞社、1977年)で読んだのだと記憶しています
が、今手元に本がないので、私の理解した範囲で話します。
日本人は自然を愛する国民だといわれるわりには、自然を破壊しているのはなぜか、という問題があります
(これは、特に公害が目にあまる状態だった頃の問題意識ですが)。
それは、欧米の人々がキリスト教的に自然を神から管理するべくゆだねられたものと捉えるので、これがマイ
ナスに働くと与えられたのだから勝手に使ってもいいと考えられて自然破壊につながるが、もう一方しっかり管
理する責任があるという考え方になるとそこから自然保護思想や生態学が生まれてくる、というのです。
ところが、日本人は、自然を母のようなものだと捉えていて、どんなに汚しても後始末をしてくれ、どん
なに我がままをしてもすべて受け容れてくれる存在だと考えている、というのです
そして、自分がもう思春期の男の子のように母親よりはるかに腕力が強くなり、「おふくろ、こづかいよこせ」と
我がままをいって、くれないとなぐり、かならずしも意図していなかったのに母親に大怪我をさせてしまうようなも
のだ、と。
自然(母親)の自己浄化力(後始末)と資源の量(おこづかい)が無限だと思い込んでいる。自然に対して悪い
意味で甘えている、のが日本人の自然観だ、というふうに筑波氏は指摘していたと記憶しています。(*本が見
つかったので引用記事とリンクしました。)
「なんとかなるさ=何か(自然)がなんとかしてくれるさ」と「(自然の)流れに身を任せ」ながら、つまり自然に甘
えながら、暮らし(経済)のことに専心する、それはいいことだ、という思いがいまだに日本人の多くの心の奥の
思い込みとしてあるようです。
そうした日本人の心性(メンタリティ)をみごとに表現しているのが、次のような二宮尊徳の歌です。
この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめに田の草を取る
未来のことは自然に任せておけば、起こることはせいぜい台風くらいで、それも「台風一過秋晴れの下」、力
を合わせて立て直せば何とかなる。だから、そんなことを心配していないで、今日の仕事を一所懸命やればい
いのだ、というわけです。
これは、日本が農業社会である時代には適していたでしょうが、もはや工業社会、そして脱工業社会へと向
かいつつある時代に、そのままでは不適応を起こさざるをえない、ある意味で幼児的な心性です。
私たちは、近代の人間の経済−技術的な行動が環境に深刻な影響を与え、それはいまや私たちに返
ってきつつあることをはっきり自覚し、それをどう修復し、エコロジカルに持続可能な世界をどう構築す
るかを考えられる、大人のメンタリティを獲得する必要があるのではないでしょうか。
ありうる近未来の3つのシナリオ
2006年9月7日
このような現状のまま進むと、どういうことが起こるか、大まかにみて3つのシナリオが描けると私は考えてい
ます。
第1は、環境危機の本質をはっきり認識して、ではどこへ向かうべきなのか明確に目標設定をして、本格的
な実行をして、実際に持続可能な世界秩序を創り出すというもっとも望ましいシナリオです。
後でもう少し詳しくお話しますが、こういうシナリオの手法はスウェーデンが採用しているもので、「バックキャ
スト」ないし「バックキャスティング」といいます。
このシナリオは、先にお話ししてきたような日本の条件を考えると、そうとうに困難ですが、不可能ではないと
思います。日本政府の環境関係者も、最近、手法としては「バックキャスティング」で行くことを決定したそうです
*。問題は、目標が「循環型社会」では不十分だと思われるという点ですが、それでも大きな前進であることは
まちがいありません。
ところが、繰り返しお伝えしているとおり、幸いかつ驚くべきことに、スウェーデンを代表とする北欧諸国は、第
3のシナリオを着実に実行しつつあるようです。
実は、1999年の初版では、このシナリオはきわめて困難で実行不可能かもしれないという思いがあって、第
3にあげたのですが、スウェーデンの実例をとおして、これは条件次第では実行可能だと考えるようになり、第
1に変更しました。
もちろん、このシナリオはまだ少数の「環境先進国」で採用されているもので、世界全体としてはまだまだです
が、しかし確実に実行されつつあり、国際社会の世論形成に影響を与えつつあるということは大きな希望で
す。
第2は、一見それに近いのですが、形式上「対策策定」をして「実行」していることになっている、というシナリ
オです。
特に先進国ではどこでも、環境問題に対してそれなりに対策を策定して、実行していることになっています。
日本も、環境庁ができて、環境省に格上げになり、いろいろな研究機関が作られ、そこにたくさん優秀な官僚
や研究者がおられて、いろいろ資料を作りあげて、環境基本法が制定され、環境基本計画などいろいろなプラ
ンを作っておられるのですが、それは、実行といっても、残念ながらある程度の実行であるように見えます。
問題が起こってからそれに対応して対策を立てるという手法を「フォアキャスト」「フォアキャスティング」といい
ますが、従来の日本の「公害対策」「環境対策」はこの手法で行なわれてきました。
これは、次の100パーセントの問題先送りよりはましですが、結局のところ、崩壊の若干の先延ばしにしかな
っていないのではないか、と私は見ています。
第3は、問題先送りです。
環境問題を最優先課題にしていない人々が主導権を握っている国では、当然問題は実質的にはかなり後回
し―先送りになっていきます。
経済大国としてはまずアメリカ、それから大きな人口を抱えこれから経済大国になろうとしている中国やイン
ド、そして残念ながら実質的には日本も、そしてもっとたくさんの国がそうであるようです。
1998年の時点で、国連環境計画の顧問、東大大学院の国際環境科学の教授を経て、現在北海道大学大
学院の公共政策の教授をしておられる、日本の代表的な環境問題専門家の一人である石弘之氏が、『地球環
境報告U』(岩波新書)で、「この『先伸ばし』の限界は、いつごろ世界的に顕在化してくるだろうか。私自身、さ
まざまな分野の研究者と将来の見通しを検討しているが、2020年ごろがひとつのヤマ場となると考えている。
……このままでは生産や人間生活を支える基本となる水、森林、土壌、水産資源などがそのころまではもちそ
うもないからだ。」(p.208)と書いておられました。
そして、最後に「日本はタイタニック号ではないだろうか、と思うことがよくある。だれもが、前方に氷山がある
ことは知っている。まさかこの不沈艦は沈むことはない、科学技術をもってすれば容易に回避できる、と氷山の
存在をことさら無視しているのではないだろうか。氷山の破片が漂いはじめている事実は本書中で報告したと
おりである。」(p.213)と書いておられましたが、基本的には状況は変わっていないのではないでしょうか(石氏
自身、その後もブログでそういう趣旨のことを訴え続けておられます)。
そうすると、早めにみてまず2020年くらいと予測される世界的な環境危機による大混乱の中に、日本も巻き
込まれていくことが想定されます。
国連大学が昨年10月に発表した警告によれば、「2010年、5千万人もの人々が地球環境の劣化による問題
から逃れることのできない生活を強いられているであろうという予測がされている。これを受け、国際連合大学
の専門家達は、この新しい『難民』の分野を定義、認知、そして支援することが緊急課題であると考えている。」
「地球環境の影響を受けて移住を余儀なくされる人々は、すでに、現在およそ1,920万人程度と計算されてい
る『援助対象者』と同程度の人数であり、近い将来、この数字を上回るとされている。また、赤十字の調査でも
戦争による移民よりも地球環境問題を原因とし、住む場所を失う人々の方が多いという調査結果が出てい
る。」ということです。
人類が突然絶滅するというSFパニックもののような事態を想定するのは現実的ではないと思いますが、世界
全体として大きな混乱が生じることはまちがいないでしょう。
そしてそういう状況が急激に進むと、100年以内に世界全体がそうとう悲惨な状況になり、人口が非常に少
なくなって、荒廃しきった環境条件の中でわずかな人類が細々と生き残るという事態に到ることも、まるで想定
できないことではありません。
とはいっても、それまでの国の政策の違いによって、それぞれの国の状況にはかなり大きな格差が出るでし
ょう。
バックキャスティングで政策的に対応した国は「ソフトランディング(軟着陸)」できるでしょうし、フォアキャステ
ィングで対策的に対応した国やさらにほとんど先送りした国はさまざまな程度の「ハードランディング(墜落)」を
することになりそうです。
これからの世界は、大まかにいってこの3つシナリオしかないだろうと思います。
といっても実際には第1から第3まではグラデーションですから、人類全体としてどのあたりに到達できるか、
それが問題だ、ということになります。
ぜひ、まず日本の、そして世界の国々すべてのリーダーたちが、「エコロジカルに持続可能な社会」に向け
て、バックキャスティングの手法を採用し、最善のシナリオを選択するように働きかけていきたいものです。
もっとも多いのは先送り・先延ばし
2006年9月10日
先進工業国の多数は、本音では今の資源浪費型の高度産業社会――これは必然的に大量生産−大量消
費−大量廃棄社会です――をやめたくないようです。
しかし本音を公式の場で言うとデータと矛盾しますから、建前的には「持続可能な社会」というコンセプトを受
け入れるようになっています。
例えばインターネットで「持続可能な社会」というキーワードで検索してみると、官民通して建前としての受け入
れ−浸透の度合いは、驚くばかりです。
しかし、そこで語られていることをよく読んでいくと、実際的にはスウェーデンなどの行なっている政策とは根
本的に異なった方向のものが多いようです。
そして、官の多くが本音ではないようで、実際にやることを見ていると、最優先・最重要課題としてお金や人や
いろんなことをどこまで注ぐかを持続的に観察していると、いつも問題先送り気味になっているように見えます。
日本でいうと35年ずっと問題先送りです。世界各国の多数もそうです。そのツケがそろそろはっきり回ってき
そうだということでしょう。
もちろん、問題先送りといっても、最初から先送りをしようというわけにはいきませんから、公式にはどうする
かというと、「対策を策定しましょう」ということになります。
「まず事実を確認しましょう」ということで、研究調査が始まります。研究調査で暫定的な結論を出すためだけ
でも○○年かかるとかいう話になります。
その間、疑わしきものはどんどん放置されます。疑わしきものが放置されるということを30年もそれ以上もや
っていて、疑わしきものはどんどん増えてきているのです。
法律は「疑わしきは罰せず」の原則で行くべきでしょうが、環境は「疑わしきは対策をする」でなければならな
いと思うのですが。
そのあたりのことを小澤徳太郎さんは、「スウェーデンは予防志向の国であり、日本は治療志向の国だ」とい
っておられます。
近代科学以来、化学物質は1千数百万種作られたのだそうです。このうちのどれくらいが内分泌攪乱物質つ
まり環境ホルモンなのか、1千数百万種について、誰が研究してどういうマニュアルをつくって、どうやってコント
ロールをするのでしょうか。人類−科学者は、化学物質を1千数百万種作って、まだやめていないのです。
ともかく、問題があることは事実ですから、「問題があります。研究しましょう。事実を認識しましょう」とさんざ
んすったもんだとやったあげく、そこで学者間の学説の違いによって割引きが必ず起こります。
いちばん深刻に予測する人とさほど深刻に予測しない人の間の中間くらいの結論しか公式には出せないの
です。そこでまず割引きが起こります。
次に対策策定がなされるのですが、この対策策定というのは公文書だけ見ると(例えば典型的には「環境基
本計画」ですが)、結構がんばってやってくれるのだと思って期待するのですが、実行段階を見ていると、書い
てあることの半分も実行されないように見えます。ここでもまた割引きが起こるわけです。
こういうふうにして、どんどん割引きが起こるという人間的なマイナス要素が必ず加わってきますから、対策策
定の内容に対してある程度の実行というふうにしかなりません。対策策定そのものが危機のいちばん深刻な予
想に基づいてなされないうえに、実行段階では割引きされますから、結局、問題の根本的解決は先延ばしにな
るだけです。
というわけで、国際自然保護連合の「国家の持続可能性」ランキングで上位に評価されている、スウェーデ
ン、フィンランド、ノールウェー、アイスランドなどの北欧は解決に相当接近しており、オーストリア、カナダ、スイ
ス、そしてドイツ、デンマーク、ニュージーランドがある程度接近しつつあるのを別にすれば、日本を含め多くの
先進工業国では、公式の世界での建て前が第2のシナリオ、実態は第3のシナリオに限りなく近いということが
起こってきたし、今でも続いているように思えます。
しかし、環境問題の緊急性からいえば、本当は先延ばしなんかやっていられるような状況ではない、と
思います。
問題解決法か願望実現法か
2006年9月13日
さて、こういう問題を考えるときに、大きくいってアプローチの仕方に2種類あります。
問題解決のアプローチとしては、ふつうほとんど例外なくまさに「問題解決法」と呼ばれる方法が採られます。
これは、まず現状認識から始まります。それから原因分析を行ないます。それから対策策定が行なわれて、実
行がなされるわけです。
専門的には「フォアキャスト」と呼ばれる手法です。
ところが、問題は、すでに言ったとおり、この間で段階を追うごとに割引がなされるということです。
問題解決法というのはそもそも起こっていることを問題・マイナスと見ていますから、できるだけその問題でマ
イナスの努力をしたくないという心理が必ず働くわけです。例えば「環境汚染をなんとかするための財政負担を
どうしよう」といった発想になるわけです。負担・マイナスととらえると、なるべくそれを減らしたくなります。
「問題解決法」というアプローチですると、心理的にあるいは実際財政的にも割引、割引ということになり、実
行段階になると必ずといっていいくらいかなり割り引かれた実行しかできないのです。
ところが、従来、公式の機関がやってきたのは全部この手法でした。
ですから、ほんとうにやりたいのであれば、私に言わせると、そういう手法だけでは足りないのです。
それに対して、より有効だと思うのは、「願望実現法」というアプローチです。
先ほどの第1のシナリオを実現しようとする場合、どうすればいいかというと、我々はどこに行きたいのか、ど
こに行かなくてはいけないのか、というヴィジョンをはっきり目標として設定するということです。
つまり、高度産業社会、高度浪費社会はこのまま続けることはできないとしたら、そうでないエコロジカルに持
続可能な社会に行かなくてはいけないのだ、行きたいのだ、それが人類の行かざるを得ない目標である、とい
うことをはっきりと割引なしにヴィジョン設定をするということです。
スウェーデンなどが採用しているのはこうした手法で、「バックキャスト」と呼ばれます。
スウェーデンのように政府がバックキャスト手法でやっている国はいいのですが、我が国のようにフォアキャ
ストでやってきた国では、まず気づいた市民が、以下のような「願望実現法」という方法で、国家単位でのバック
キャストを目指して目標を設定することから始めるほかないでしょう。
目標を設定したら、それが実際に具体化したらどういうことになるのかをイメージ化してみます。
そして、それにもし参加するのであれば、もうそれは実現すべきものだから、実現するんだというふうに信じる
しかないのです。
これまで挙げてきた予測からすると、確率的にいえば人類の未来は相当に当厳しい、と私は読んでいます。
にもかかわらず、その先に行きたいんだという願望が自分の中にあるのであれば、もう「行くのだ、行けるの
だ」とまず自分の中で信念を確立するしかないのです。
そうすると、何が起こってくるかというと、私たちの心の中に「行く」というエネルギーが湧いてくるのです。「そ
こに行くんだ、行かなくっちゃ、行きたい」というエネルギーが国民的な規模で獲得できるかどうかというのが、
実は一番大きな問題だと私は考えています。
みんなが「なんとなく大変なのはわかっているけど、それに関わるのはめんどくさいし、大変だし、疲れるし、
暗くなるし……」と言っていたのでは、起こる確率の高いことが実際に起こってしまうでしょう。
先ほどの問題解決法だと必ず「犠牲を払う」という話になるのですが、それに対して、願望実現法という手法
を使って、これから先人類が向かうべき行き着く先を希望のある世界としてヴィジョンをきちんと描き出せたら、
そこに行きたくなり、そこでする努力は「自分の夢のための先行投資だ」という発想に変わるのです。
私たちがこういうことに関わるときに、自分たちの未来のため、夢のために先行投資をするんだという
発想を確立することです。
しかし、今きわめて高度に発達した産業社会ですから、これを今日や明日に変えるわけにはいきません。エ
コロジカルに持続可能な社会と高度産業社会の間には、そうとう大きな距離があります。
この距離だけを考えると絶望しそうになるのですが、そこで私たちは近代以降の理性の時代に生きている人
間ですから理性を使わなくてはいけません。
どんなに遠くてもステップを踏んでプロセスを踏んで歩んでいけば、目的地に到達するということです。プロセ
スをはっきりと意識的に設計するということです。どこに行きたいのかがはっきりしたら、そこに到達するための
プロセスを設計するのです。
このプロセスの設計というのは、ヴィジョンさえ確立してしまえば、日本には細かいプロセスが設計できる非常
に優秀な能力をもった学者や官僚はたくさんいますから、少なくとも国民、国民の代表としての政府がこちらに
向いて行くのだと決めて、学者と官僚に発注すれば、プロセス設計は間違いなくやってくれるでしょう。そうした
ら、それこそ官民挙げてそれを実行・実現すればいいわけです。
すでにかなりのプランが、学者の中からも通産省や環境省の官僚の中からも出てきていますし、少し前から
「バックキャスト」手法で行かなければならないということさえ語られるようになっていますが*、残念ながら肝心
の目標が、エネルギー消費の限界をはっきり押さえた真に「エコロジカルに持続可能な社会」ではなく、経済成
長とそのためのエネルギー消費の拡大を前提にした「循環型社会」という構想ですから、それでは本当の問題
解決にはならない、と私は考えています。
しかし幸いなことに、すでに国家単位で「エコロジカルに持続可能な社会」を目標に掲げ、バックキャストの手
法で着実に実現しつつあるスウェーデンのような国もあります。私たちは、具体的なモデルがないところで、ゼ
ロから考える必要はないのです。
私たちは、スウェーデンなどの「福祉先進国」でありかつ「環境先進国」である国々に学びつつ、まず日本の
未来のヴィジョンを描くことができるでしょう。
そして、ヴィジョンができたら、それを実現するための手法は「バックキャスト」そして「願望実現法」で
す。
実現に不可欠な4つの面の条件
2006年9月14日
どうしたら本当に「持続可能な社会」が実現できるのかを考えるうえで決定的にヒントになると思うのがケン・
ウィルバーという思想家が『進化の構造1・2』(松永太郎訳、春秋社)で書いている存在の「4つの象限」という
考え方です。

ウィルバーは、世界や人間を全体として捉えるためには4つの面=象限を区別したうえでそれぞれをすべて
見る必要がある、と言っています。
「4象限」というのをわかりやすく図式化すると、縦軸、横軸で区切られたグラフになります。上は個別・個人の
象限、下は集団とか社会の象限、右は外面、左は内面です(ウィルバー『進化の構造1』春秋社、p.196 より引
用)。

『進化の構造』では、この4つの象限で物を考えないと、世界の全体像が見えてこないということがきわめて詳
細に説得的に語られていて、私にとっては目から鱗が落ちるという本でした。
例えば消費行動というのは、まず外側で見える個別の行動です(右上象限)。
それは、実は購買意欲という個人の心の中・内面で起こっていることと関わっています(左上象限)。
ところが、いくら買いたいと思っても、貨幣経済という集団の共有する文化(左下象限)がなければ、ただの紙
であるお札がお金と見なされて物を買えるということが起こりません。
さらに、実際に買い物ができるためには、社会の外面として商品流通システム(右下象限)があって、商品が
流通していなくてはいけません。
他のことについても自分でシミュレーションしていただくと納得いくと思いますが、こういうふうに、私たちの世
界で起こっていることにはすべて必ず4つの象限があるというのです。
そういう視点から見ると、これまでエコロジーが問題になってきた時、エコロジカルな技術や消費者行動をどう
したらいいか、あるいは環境にやさしい社会システムはどうやったらできるのか、という外面・右側象限の話は
かなり深められてきたけれども、左側が十分ではなかったのではないかということが見えてきます。
例えばいちばん典型的なのは、国連大学が中心になってやっているゼロ・エミッション社会の構想です。あれ
は外面の形としていえば、実現できるのなら、とりあえずはほぼそれでいいわけです。
ところが、日本国民の一人一人ということになると、そういうことをほんとうにやる気があるのでしょうか。さら
に、日本国民の中でそれをやるほんとうに実行力のある集団、あるいは国民的合意が獲得できているのか、と
いう問題になると、ここはほとんど抜けているのです。本音で言うと、「無理なんじゃないの」と国民の大多数が
思っていたり、特に指導者たちは「今の高度産業社会を急に変えるわけにはいかないじゃないか」「まず景気
対策が先だ」「いくら環境を壊すといっても、やっぱり公共事業をやらないと景気は回復しないだろう」という話に
なってしまうのです。
ここのところについては先ほども言ったように、市民や学者は批判をしてきたのですが、どうして個人と国民
全員の内面を変えていくかという基本的な視点や方法については、問題意識が不十分だったのではないか、と
私は見ています。
その結果、35年、かなり多くの心ある方々が外側のことに真剣に取り組んできたにもかかわらず、リーダー
の内面=基本的な価値観や発想は変わらず、国民の大多数の内面=気持ち・欲求構造も変わらなかったの
で、全体に集団の内面としてのエコロジカルな文化は形成されず、集団の外面としての社会システムも変化し
ないままだった、ということではないでしょうか。
そして世界全体としては依然として、後進国は先進国に追いつこう、先進国はやっぱり経済成長を続けよう、
ということになっており、日本もそれに追随しているわけです。
これでは、世界全体も日本も、大量生産−大量消費−大量廃棄というパターンを抜けることはできません。
では、ほんとうにエコロジカルに持続可能な社会の実現には何が必要かというと、まず第1・右上象限では
「環境に調和した個別の技術や個人の行動」です。これをどうすればいいかについては、そうとう程度見通しが
ついていると思われます。
次に、第2・左上象限の「環境と調和した生き方をするのが、いちばんいい生き方でいちばん幸せなのだと感
じるような個人の欲求構造」です。環境を壊してまでぜいたくな生活はしたくない、「してはいけない」のではな
く、「したくない」と思うような心の欲求構造のあり方です。そうした欲求構造を育むことは、容易ではありません
が、可能だ、と私は考えています。
それから第3・左下象限の、環境との調和を最優先して、なおかつ個人に対しては自然な欲求を育んでいくよ
うな方向付けを絶えずするような文化です。つまり、例えば子どもが学校で教わっていると自然と環境を壊すよ
うなことをしたくなくなるような教育が行なわれているような社会ということです。
そしてもちろん言うまでもなく、第4・右下象限の、環境と調和した社会システム、特に生産システムが必要で
す。
この4つの象限の条件が全部そろえば、「エコロジカルに持続可能な社会」はまちがいなく実現するでしょう。
そして、この中の右上象限と右下象限のヴィジョンに関して言えば、スウェーデンでは当面向かうべき目標は
ほとんどできているようです。
しかし、私はスウェーデン・モデルでもまだ不十分で、さらに行き着くべき先は〈自然成長型文明〉という文明
の方向を考えています。これについては、あとで述べます(このブログでは先に書きました)。
ほんとうに持続可能な社会秩序を創り出すために必要なものは4つの側面であり、さらに実行レベルでいう
と、まず4つの象限をすべてカバーしたヴィジョンが必要だということです。目標設定をするためには、ヴィジョン
が必要です。
それから、高度産業社会から自然成長型文明までは大変な距離がありますから、そこに到るまでのプロセス
としてスウェーデンの「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」をモデルにして、日本は日本にふさわし
い、各国は各国にふさわしい形をどうやって設計するかという発想も必要でしょう。
そして、今日本でいちばん欠けていて、いちばん大事なのは、主体の問題です。誰がそれをやるのか
ということです。
私は譬えとしてよく言うのですが、ネズミとネコの寓話をご存じでしょうか。ネコがネズミを絶えず食べにきて仲
間たちがどんどん減っている、「どうしよう」とネズミたちが相談します。「ネコの首に鈴をつけたら、来るのがわ
かるから逃げられる」という意見が出て、「それはいい、それはいい」と全員が同意しましたが、さて、誰がやる
のかということになった時、みんなやりたがらなかったのです。そして結局、1匹ずつ食べられていって全滅しま
した、という話です。
それに似て、ヴィジョンとプロセスの設計ができても、実行の主体がなかったら何にもなりません。国民が「私
が実行の主体になるんだ」という意欲をもたないかぎり、「政治家がやるべきだ、官僚がやるべきだ、学者が考
えるべきだ」と言っている間は――35年間できなかったわけですし、その傾向は変わっていませんから――で
きないでしょう。
だから、「あなたたちがやらないのなら、私たちがやる」、つまりデーモス・クラティア=民主主義です。「あなた
たちがリーダーとしてふさわしい行動をしてくれないのであれば、私たち国民が主権者として、私たちの望むリ
ーダーを選びなおします」、今「持続可能な社会」を望んでいる国民はそういう決意をもつ必要があるのではな
いでしょうか。
まず日本人の中のどれだけの人間が、さらに人類全体の中のどれだけの人々が、それだけのエネル
ギーや意欲や決意をもちうるか、持続可能な社会を実現する本当の主体になれるかということが決定
的な課題だ、と私は考えています。
そして、その課題はもちろんやすやすというわけにはいかないにしても、やがて必ずクリアできる、と信
じています。
〈自然成長型文明〉というヴィジョン
2006年9月6日
「成長の限界」が自然の掟であるとすれば、ではどうすればいいのでしょうか。
結論的にいってしまえば、「無限の経済成長」ではなく、「自然の成長に合わせた人間生活の成長」を目
指せばいい、と私は考えています。
このネット授業でずっとお話ししてきたとおり、コスモスは自己組織化・自己複雑化という意味でより組織化さ
れたより複雑な、つまりより高度なシステムへと成長し続けるものです。
太陽の寿命が終わりに近づいて、地球が溶けてしまう何億年か何十億年先のことはともかく、少なくともここ1
億年や2億年は地球というシステムも、人類の影響で紆余曲折するとしても、より高度なシステムへと成長し続
けることは確実だと思われます。
(そんな先のことまで気になる心配性というか心配症の方のために一言いっておくと、太陽が超新星爆発を起
こしてその生命を終わっても、銀河スケールで見ると、それは新しい何かの創発の準備になることでしょう。そ
れから、それまでに人類が宇宙にとって生き延びるに値するほど意識(こちらが必須の優先的条件)と技術の
進化を遂げていたら、SFではありませんが、太陽系外の星へと移住するということも可能になっているかもし
れません。どちらにしても、私の考えでは、まずこの21世紀100年弱、次の世代が生きていける環境を再創
造できるかどうかを心配したほうがいいと思います。)
環境危機の話をすると、「重い」とか「気が滅入る」とか「無理」といわれる方も多いのですが、ヴィジョンが楽し
ければ、楽しいヴィジョン実現のための先行投資の努力であればやる気が出てくるということがあるので、簡単
に〈自然成長型文明〉のヴィジョンの話をしておきたいと思います。
私がこういう発想に至ったのは、福岡正信さんという自然農法をやっていらっしゃる、エコロジー運動の世界
的レベルではすごく有名な方の影響です。
この方は、耕さない、肥料をやらない、農薬をかけない、草を取らない、それでも化学農法と同等、ときによっ
てはそれ以上の収穫があがるという農法を確立していらっしゃるのです。
私は、出版社にいた頃に、福岡さんの本を出すに際し、ほんとうなのかと、何回も農場見学に行って、実際に
目で見て確かめました。
行って見ると、「百聞は一見に如かず」で、イネやムギが雑草と一緒に生えていたり、道端や藪の中にキュウ
リやトマトや大根が見事になっていたり、という自然農園の風景に驚いてしまいました。
NHKでも何度もドキュメンタリー番組で取り上げていましたから、まるで楽園のような自然農園の風景をご覧
になった方も多いでしょう。
私は、何度もうかがって確かめた結果、生態系をまったく壊すことなく、化学農法と同等またはそれ以上の収
穫をあげる農法は確立されている、と確信するようになりました。
もしそれが正しいとすると、まずこの農法を世界全体でやれば、自然環境をまったく破壊することなくみんな
が食べていくことは大丈夫です。
ほんとうにそんなことが可能かどうか質問すると、福岡先生は、戦前の農業専門学校(今でいえば農業大学)
出身の方ですから、数値やデータもきちんと扱える方で、太陽の日射量とそれを植物が地表に固定できる光合
成の能力、そのうちどれくらいが食糧になりうるかという計算を全部やると、「世界全体で自然農法をやれば今
の人口の倍まで大丈夫です」とのことでした。
それが84年くらいだったと記憶していますから、2020年から2050年くらいの人口なら賄えるということでし
ょう(『自然農法 わら一本の革命』『自然に還る』春秋社、参照)。
しかし、そういうとすぐ出てくる反論は、「そんな不便そうな生活はしたくない。近代は、科学技術のお陰ですご
く便利になっていて、この便利さを人類が捨てられるわけがない」というセリフです。
これに対しては二つの言い方ができます。
まず、「捨てざるを得ない部分と捨てなくてもいい部分にきちんと区別して考えたほうがいいのではありません
か?」と。
それから、「捨てざるを得ない部分まで、どうしても捨てないのなら、そうとう悲惨な近未来が待っているようで
すが、それでも捨てたくないですか?」ということです。
近代の利便性の中で、エコロジカルに持続可能な社会と抵触しないものは残せばいい、抵触・矛盾するもの
はやめればいいのです。
エコロジカルに持続可能ということを主に、近代技術の利便性は従にして、残せるものは残せばいい、さらに
工夫できるものは工夫すればいい。原理だけいうと、話は簡単です。
私は、「二十一世紀以後もずっと人類が生き延びていきたいのだったら、外面の形としては、自然農法をベー
スにして、それにオルタナティブ・テクノロジーを加味した文明を創るしかない」と考えています。
そして、それは例えば江戸時代に後戻りするということではなく、人間が自然のゆったりとした成長の歩みに
合わせて自然と共に成長するということなのです。
大自然・コスモスの時間は実に悠々としたものですが、しかし決して停滞することなく進化し続けているので
す。
ですから、少なくともヴィジョンとしては、そういう「自然成長型文明」というヴィジョンを描くことができ、かつ理
論的には実行可能だ、と私は考えてきました。
そして、最近、スウェーデンの実例を知って、ますます実際的にも実行可能だと確信するようになっています。
まず高度産業主義文明から先駆的国々が「緑の福祉国家=エコロジカルに持続可能な社会」に移行
する、そしてその影響が世界全体に広がって「自然成長型文明」が成立する、と。
補足として、「無理」という方に、すばらしい言葉をお送りしたいと思います。
なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは 人のなさぬなりけり
江戸時代の代表的な名君上杉鷹山(うえすぎようざん)の和歌です。
日本も「緑の福祉国家」にする、さらには世界に「自然成長型文明」を創り出すということは、きわめて困難に
決まっていますが、不可能ではないのではないでしょうか。
「できない」というのは「やらない」人の思うことです。
「なせばなる!」と私は信じることにしています。
スウェーデンの人にできて、日本人にできないはずはありませんからね。
第3の道から自律主義へ
2006年9月16日
高度産業主義社会から自然成長型文明に突然転換するのは無理ですから、プロセスとしては、自由放任型
の市場経済・産業主義ではなく、まずスウェーデンのような〈第3の道〉――経済的には自由・資本主義的に、
分配−福祉の面では社会主義的にという――北欧型社会民主主義に早めに移行する必要があるのではない
でしょうか。
ほんとうに「持続可能な社会=緑の福祉国家」を創りたいのなら、そういう政治的決断が必要だと思います。
〔ソ連・東欧の崩壊以後、「社会主義」ということばのイメージがきわめて悪くなっていて、たとえ「北欧型」と但し
書きをつけても、「民主主義」が後についていても、日本の大衆にすぐに「社会―民主―主義」こそ次の選択肢
だと感じてもらうのはかなり難しそうだ、という問題もありますが、それは今後のイメージ戦略の課題でしょう。〕
そして、やがて人類の多数が自らの内発的な自律的な欲求として自然成長型文明を選択するところまで行け
るといいと思います。それを、私は〈自律主義〉と呼んでいます。
自らの意思・内発性で自らを律するのを自律といいます。自由というのはほんとうはそういうことなのです。決
して自らを滅ぼしてしまうような欲望に駆られて身勝手にすることが自由ではありません。自らをも人をも生か
すことができるように、自らをすすんで律することのできる心のあり方を自律というわけです。
これから人類は全体としては自律していかなくてはいけないし、その外面なかたちとしては自然成長型文明で
あり、そういう文明を心の底から望む人々の文化と集団、つまり内面がそういう外面とちゃんと対応して出来て
くるという条件が調ったら実現可能だということです。
この個人と集団の内面が調わなかったら、外面としての持続可能な世界―自然成長型文明もできないでしょ
う。いくらヴィジョンだけ描いても、「絵に描いたモチ」で、それを実行・実現する主体がないのですから。
「誰か、やるべきだ、やってくれ」と言っても、今社会の主導権を握っている方たちの大多数は、多分やらない
でしょう。
幕末―明治維新の勝海舟などのように、既成の主流にポストをもちながら、新しい潮流を理解し協力すると
いう方も少数ながらおられますから、希望はありますが、全体としては、残念ながら持続可能な=つまり無限の
成長という発想を抜けられないようです。
ですから、気がついた人間が始めるほかない、と私は考えているわけです。
欲望は限りなく肥大するか?――3つの考え方
2006年9月18日
多くの人が、「エコロジカルに持続可能な社会」について、建前としては賛成だが本音でいうと実際には無理
だろうと思って、先延ばしにしたり、あきらめたりしてしまうのにはいろいろ理由があるでしょう。
中でも1つ大きな理由は、「人間の物質的な欲望というのは、基本的に限りなく肥大していくものであるから、
それを無理に抑えるのはできない話だ」と思い込んでいる人が多いということではないかと思います。
社会の主導権を握っている人もそうだし、国民の多くも市民もそのようです。
「人間の欲望というのは、豊かになればもっと豊かになりたくなるし、便利になればもっと便利にしたいと思
い、贅沢すればもっと贅沢したくなるもので、それはしかたがない、たとえ環境が破壊されると言われても、そ
れなら私(たち)の利益はほどほどに抑えます、と言えないのが人間というものだ」と思い込んでいるために、
「高度経済成長型の社会をやめられないのはしかたがない」と思っている人が多いのではないでしょうか。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか? ほんとうはそうではない、と私は考えています。
そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に3つの考え方があると思います。
第1は、「欲望は限りなく肥大するものである」という考え方です。日本の主流の「本音」はこれだと思われます。
第2は、いわば「建前」として、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるのだ」という考え方で
す。多くのエコロジー派の方がこんなふうに考えておられるのではないでしょうか。
しかしこれは、実際の現場では欲望を抑えられない人のほうが多数を占めているので、なかなか実行できま
せん。自分の欲望を抑える気のある、一部の建前を大事にする人は一生懸命努力をしますが、そこまで建前
を貫く気のない人は抑えられないなので、全体として欲望の肥大は抑えられない方向に走ってしまうというパタ
ーンです。
そういう、「本音でいく人」対「建前を貫こうとする人」という対立構造で、多数の経済成長派と少数のエコロジ
ー派がにらみあってきたのが、ここのところ40年ちかい日本のパターンではないかと思われます。しかし、これ
では問題解決はできない、と私は考えています。
第3は、「欲望は、もともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、治療できる」という考え方で
す。
人間の欲望が、本質的に第1のように無限に肥大するものであれば、人類の未来についてはあきらめるか、
さもなければ、技術の進歩でそのうち何とか解決できると信じるほかないでしょう。
第2の捉え方では、「抑制すべき」とか「抑制できるはず」という考えに反して、現実としては人類は全体として
欲望肥大の方向に向かっているという事実をうまく理解・分析ができないのではないでしょうか。
うまく理解・分析できないまま、「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りないからで、これ
からトレーニングをすればなんとかなる。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的にコントロールでき
るようになるはずだ。そういうことをねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなって世の中が変わるだろ
う」と考えることになります。
確かに、スウェーデンなどの「環境先進国」の環境教育を考えると、政府主導で国民全体に対してしっかりと
した教育がなされれば、相当程度、こうしたことも可能なようです。
4象限のところでお話した、左下・集団の内面の象限、つまり文化全体が環境志向になっていれば、左上・個
人の内面、それぞれの欲求のあり方も影響を受けて、環境志向になる強い傾向をもつでしょう。
しかし、深層心理学の洞察によれば、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分
のほうが圧倒的に深くて強い」という面があると考えられます。
つまり私たちの欲望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。「理屈ではわかっているんだ
けど、言われるとわかっているんだけど、でもそうしたい」、つまり心の奥から湧いてきて、私たちを駆り立てる
というところがあると思います。
理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でも何かに衝き動かされてやめられないとい
うことがしばしばあります。
しかし、こうした、人間の心には深層という部分があることは今教育の世界の常識にきちんとなっていません
し、まして国民的な常識にはなっていません。
そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行
動のできるような意思が確立できるはずだ」と考えて、いいことを一生懸命教えるのですが、いくら教えても必
ずしも実行しない、できないことがあります。
それはなぜかというと、実行したくない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎ
り、説明がつかないのではないでしょうか。
深層心理学的な視点からすると、欲望の源泉は意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識に現われ
てきたり、あるいは潜んだままで意識を陰から揺り動かし操るものです。
そのために、意識・理性・意思による直接的なコントロールが難しいのです。
そのために、第1の捉え方のように、「限りなく肥大していくもので、どうしようもない」ように見えてしまうので
す。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。
ですから、無意識の問題を捉えないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするア
プローチには、もちろん社会全体で合意して行なえれば、相当な効果はあるのですが、限界もあると思うので
す。
それに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という発想が必要だ、と私は考えてきました。
自然な欲求には限度がある――欲求と欲望の区別
2006年9月20日
人間の欲望または欲求について考える時、非常に役に立つ仮説があります。あくまでも仮説ですが、そうとう
の妥当性があると思われるもので、エイブラハム・マズローというアメリカの心理学者が立てた「欲求の階層構
造仮説」という説です。
これは日本では、ほとんど産業心理学的にしか使われておらず、大切なポイントが十分理解されていない面
があるようですが、人間というものを考える時、非常に大きなヒントになると思います。
簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしている」と言っ
ています。
いちばん基本的で低いところに生理的な欲求があり、それはいちばん基礎的なものだから非常に切実では
あるけれども、それが満たされると人間はそれだけで満足できるかというとそうではなくて、満たされてしまうと
それは大した問題ではないような気がしてきて、次に安全と安定の欲求が現われてくるのです。
いわば、お腹がいっぱいでも、いつ殴られるかわからない状況にいたら、人間は満足できないということで
す。
そして安全と安定が満たされていても、自分のことを愛してくれる親がいて家族の中で自分の所属の場所が
あることへの欲求、つまり愛と所属の欲求が次に出てくるのです。どちらが優先度が高いかというと、安定欲求
のほうが優先度が高いのです。
例えば、そうとう暴力的な親にでも小さな子どもはしがみついてしまうという現象があるようですが、それは、
やさしいかもしれないけれども知らないおじさん・おばさんのところに連れて行かれるよりも、愛していない親の
側でもそのほうがよく知った安定している環境だからなのです。
それはともかく、安全と安定が満たされても、それで人間は満足できるわけではなく、次には愛と所属の欲求
が出てくる。
では、愛され、所属する家族や集団があれば人間は満足できるかというと、それもそうではない。人間はある
年齢になると、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。自己イメージというものです。そのと
き、こちらから見ている私が、見られている私=自己イメージをOKと思う、承認する、自分が自分を認める。そ
して、それを保証するように外からの承認もなされる。その両方の承認がなければ人間は満足できない。それ
を承認欲求といいます。
ところがさらに、人間の欲求は承認欲求まで満たされたら終わりかというと、そうではなく、さらに、この世に生
まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたい。しかもそれを身勝手にするというので
はありません。この世に生まれてきたということは、他の人々の中に他の人々とともにこの世界に生まれている
ということですから、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したようなかたちで私がよく生き
るというふうに生きたいという欲求が出てきます。それを「自己実現欲求」と呼んでいます。
ところが、いくら自己実現をやっても、人間は最後には死ぬのですから、それだけだとやはりむなしいので
す。そうすると、この有限の死んでしまうような自分というものをさらに超えて、もっと永遠なるものに結びつきた
いという自己超越欲求をもつのです。
このように、自己実現欲求と自己超越欲求までもつようになっていく、それが人間の基本的な性質であるとい
うものです。
人間の自然な基本的な「欲求」というのは、英語で言うと need で、必要ということでもあるのです。
そういう必要・欲求には限度があって、例えば水を飲みたいと思ったとしても、ボトル五本持ってきて「ぜんぶ
飲め」と言われても、飲みたくありません。一口か二口、のどの渇きが収まるくらいに飲んだらもういらないので
す。
このように自然な欲求には必ず限度がある、とマズローは言っています。
そして、適当な時に、適当な程度満たされると、欲求の階層構造はあがっていく、自然の欲求は満たせば満
たすほど高次の欲求になっていって、高次の欲求はついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長してい
くというのが人間の本質である、とマズローは言っています。
これは、仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいており、ただの願望の理論ではありませ
ん。十分なセラピーや臨床実験や統計調査があります。
ところで、成長のプロセスで適当な時に適当な程度に満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起
こります。
例えば、小さい時に十分に愛されないと、愛されることに対して無意識の固着が起こります。
子どもは親から愛されなくても、小さい時は自分ではどうしようもありませんから、「私はどうせ愛されない存在
なんだ」とか、「愛されることなんか問題じゃないんだ」というふうに、心の中で愛されるという欲求を抑圧するこ
とによってなんとか耐えて生きるわけです。
そうすると、大人になった時、ほんとうには愛されたいのに、「愛されっこないんだ」と思っていたり、「愛されな
くてもいいのだ」と思っていたりするから、すねたり、攻撃的になったりして、愛されるような行動がとれないわけ
です。
そうすると、当然愛されません。すると、欲求は満たされません。満たされないのだけれど、何が満たされな
いかわかっていないから、満たしてくれるその当のものではなく他のものを求めていってしまうのです。
例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行
動がとれなくなるのです。
例えば非行も、理論的な説明だけは簡単にできます。人から注目されたい、認めてほしいのです。自分でも
自信をもちたいのです。それができないから、つっぱって、目立って、人の目を引いて、悪さをするのですが、
それではほんとうの社会的承認は得られませんし、自分でもほんとうに自信がもてないので、いつまでたっても
満足できないし、うまくいかないのです。
ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受けられるか、大人の理性をもっていて考えればわ
かりきったことであり、そういう行動をすれば承認を受けられるのです。承認を受ければ満足できるのです。承
認を受けて満足すると、あまりそれにこだわらなくなります。
くり返しますが、適時に適度に満たされないと無意識的な固着が起こります。そして、ゆがんでしまって、何が
ほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの――マズローはこの状態を「神経症的欲求」と呼ん
でいます――「神経症的な欲求構造」ができてしまいます。ノイローゼというのは、その原因が自分ではわから
ないからノイローゼになるのです。こういう欲求も、ほんとうには何がほしいのかわからないまま正しくない求め
方で正しくないものを求めてしまうからうまく満たされないのです。
しかし、基本的な欲求というのは、やり方によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に
適度に満たすことができるし、そうすると神経症的な欲求構造は癒すことができるのです。
つまり、「欲望」と呼ばれてきたものは、マズローの用語で言い換えると「神経症的な欲求」なのです。
そして、近代の経済的な物質的な繁栄――というよりも、むしろ感覚的な刺激といったほうがいいと思うので
すが――の追求の底に潜んでいるのは、感覚的な刺激を求めるために物質やお金がほしいという欲望=神
経症的欲求の面があるではないでしょうか。基本的には物がほしいというより、物による刺激がほしいのです。
なぜ刺激がほしいかというと、むなしいからほしいのです。むなしくなくなるようにすればいいのに、むなしさを
紛らわせるものがほしいのです。ほとんどの余分な浪費消費は、むなしさをまぎらわせたいから、いらないもの
を買ったり使ったりするのです。原理的には簡単です。むなしくなくなれば、いらなくなるわけです。
近代の欲望の大部分は、過去に貧しい経験をしたために、生理的・物質的な欲求に固着してしまったか、安
定性に問題があったために、安全を守るために金がはてしなくほしいというふうになってしまったか、あるいは
愛と所属が満たされなかったために、絶えず自分のまわりに人を引きつけておくことのできるような権力や金
がほしくなったかというところに原因があるように見えます。
例えば、承認されるためには日本では金持ちになればいいわけです。人生に生きがいがないといっても、金
があっていろいろと遊んでいればむなしさをだいたい忘れていられるわけです。自己実現できなくても、金があ
れば日々気晴らしはできるわけです。
ということは逆に言えば、基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物資的な富はそこそこ
必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです。これは仮説ですが、セラピーやワークショップ
をやっていると、かなり妥当性のある人間観ではないかと思っています。
さらに、北欧諸国の例を見ていると、大きな社会集団−国家レベルでも妥当性のある洞察だと思えます。基
本的欲求について十分に満たされている「福祉社会」では、国民の多くが環境を破壊してまで物質的欲望を追
求する必要はないと感じているようです。
そういうわけで、従来の「意識的な学習と意思によって欲望を抑制する」というアプローチを全面的に否定す
る必要はまったくないのですが、それだけではどうにもならない無意識の欲望状態を自然な欲求構造に変える
ことも原理的にいって可能であり、それが必要だ、と私は考えています。
これを、どうやって私・個人から始まって社会全体の文化にするか。これが問題です。また、そういう個人とそ
ういう集団がどうやって社会の主導権――まさにデーモス・クラティア――を握るか、ということが課題です。
しかし、少なくともそういうふうに考えていくと、欲望を自然な欲求へと治癒することも、欲望を煽り立てるような
社会を自然な欲求を自然に満たしていくような社会に変えていくことも、理論的に可能ですし、方法論もありま
す。あと残っているのは、どれくらいみんなが実行する気になるかということだけだ、と私は感じています。
煽られた欲望は鎮めることもできる
2006年9月24日
人間の欲望は限りがないかという問題について、もう1つ重要なポイントがあります。
それは、多くの人の常識と異なり、人間の欲望は生まれつき具わった部分よりも、文化によって作られる部
分のほうがきわめて大きいということです。
民族学の研究によれば、人類はすべて、生物学的には同一の種でありながら、「人種」という言葉もあるくら
い、世界にはまるで違った生活の仕方、文化のあり方、意識のあり方がさまざまに存在しています。
そして、文化が違うと価値観もまるで違ったりするようです。
ある文化では価値のあるものとされているものが、他の文化ではまるで価値がなかったり、それどころか価
値の反対、卑しいもの、さげすまれるもの、嫌われるもの、悪いものとして徹底的に否定されるものだったりす
るようです。
「本能」であると思われる食欲についていえば、確かに生命を維持するために空腹になったら「何か」を食べ
たいと感じるという意味での食欲は、生まれつきのものですし、生きているかぎり基本的にはなくならないし、な
くすことはできないし、それどころかなくなると困るものです。
しかし、具体的に「何」を食べたいと思うかは、生まれつきのもの・本能ではなさそうです。
例えば、納豆を食べる習慣つまり食文化のある関東では、納豆が好き、納豆を食べたいという人が少なくあ
りません。
ところが、そういう食文化のない関西では、納豆大嫌い、食べたくないどころか、見るのも嫌だという人が多い
ようです。
それは、もちろん個人の好みという面もありますが、食文化による面もそうとう大きいのではないでしょうか。
「納豆を食べたい」という欲望は、食文化によって作られたという面が大きいのです。
こういう例は挙げていくと無数にあると思われます。ぜひ、みなさんも考えてみてください。
ともかく、自分の所属している文化の中で、それがいいもの・価値あるものだと見なされていると、生理的はま
ったく必要ないものでも、それが欲しくなる、欲望が生まれてくるのです。
言い換えると、「欲望は文化によって作られる」ということです。
このあたりは、社会心理学や広告理論ではほとんど常識のようです。
さて、欲望は文化によって作られるものだということがわかると、なぜ、「欲望は限りがない」ように見えるかも
わかってきます。
それは、欲望を限りなく煽るような文化の中にいると、欲望は限りなく肥大していくということです。
しかし、民族学の報告によれば、欲望を煽らないような文化の中に住んでいるネイティヴの人々は、物質的
にはごく質素な生活でしかも十分満足して生きている(いた?)ようです。
いまや、文明に汚染されて変わりつつあるようですが、典型的には「サン族」(ブッシュマンと呼ばれていた)の
フィールドワークを読むと、彼らはごく限られた自然な欲求の満足だけで心理的にはとても豊かな生活をしてい
たように見えます。
それに対し西洋近代では、科学技術と産業の発展によって大量生産が可能になり、資本家・企業人が大量
販売を望み、大衆に大量に消費するよう広告などで動機づけをするという資本主義的な商品経済システムが
成立しました。
そこでは、消費者の「購買意欲」つまり欲望が限りなく肥大していくことが、経済を活性化するいいことだと見
えるようになりました。
また、確かにある面で経済を活性化し、一定程度の範囲で長い間人類が悩まされてきた「貧困」という問題を
克服できるかに見えてきました。
しかし、それはいわゆる先進国だけのことでしたし、それは資本主義市場経済のグローバリゼーションが進
んでも、「南北問題」というかたちで未解決のまま続くでしょう。
さらに、今、欲望の限りない肥大化による経済の成長は、環境の有限性という限界に突き当たっています。
大量生産−大量販売−大量消費によって活性化し成長し続けられるはずだった資本主義商品経済というシ
ステムは、1つは大量生産の前提である大量の原料=資源の有限性と、もう1つは結果として生まれてくる大
量廃棄物の蓄積=自然の浄化能力の限界という2つ限界に直面しているのです。
けれども、いったん社会のシステムが出来上がってしまうと、そのサイクルはなかなか止めにくいのです。
人々の日々の暮らしがそのシステムに乗って行なわれているわけですから。
資本主義商品経済というシステムでは、大量消費を止めにくいどころか、むしろ広告などによって購買意欲
=欲望を無限に煽り、どんどん購買し消費してもらう必要があります。
そういう理由で、資本主義社会で生活していると「欲望には限りがない」ように見えるのです。
しかし、先にも言ったように、欲望は文化によって作られるので、文化が欲望を煽ればどんどん肥大します
が、文化が欲望を鎮める方向に向かっていれば鎮めることもできるはずです。
と言うと、「そんなことを言ったって、日本は資本主義社会なのだから、文化が欲望を鎮めるような方向に向
かうはずがないではないか」という反論が出てきそうです。
それは、確かに当面そうです。
しかし、もう1つ、人間は社会・文化からの情報によって影響を受けるのですから、個人が意識的になれば、
情報を選択したり、遮断したりするというコントロールをすることができるのです。
個人は、社会によって欲望を煽られっぱなしになるだけではなく、自分で自分の心をコントロールすることもで
きます。
それが、人間に与えられている「意思の自由」です。
私たちは、意思の自由という能力を行使して、必要以上に欲望を煽られることを拒否することができますし、
さらには煽られた欲望なら鎮めることもできるのです。
さらに、幸いにして民主主義社会にいる私たちは、思想・言論の自由、集会・結社の自由を行使して、文化そ
のものを欲望を鎮めるような文化に変えるよう働きかけることができます。
多くの日本人が民主主義社会にいながら忘れていることは、民主主義社会では選挙などの民主的な手続き
によって一滴の血も流すことなく、社会システムさえ変えることができるということです。
多くの血が流れる「暴力革命」などなしに、ごく穏やかな方法で社会システムを変えることができるのですし、
社会・政治システムを変えることができれば、文化システムが変わるよう誘導することも当然可能になります。
前にお話しした4象限理論でいえば、持続可能な社会を心から望む個人が(左上)、文化が持続可能な社会
に向かうような文化になるよう働きかけ、それが多数の賛同を得て主流文化になれば(左下)、その多数の意
思により民主的な手続きを通して社会システムを変更することが可能になります(右下)。
そうすると変更された社会システムによって、例えば教育制度などを通して、文化も欲望を煽る文化から鎮め
る文化へと誘導し変えていくことができるはずです。
別の言い方をすれば、日本文化が全体としては今のところ欲望・神経症的欲求を肥大させる文化になってい
るとしても、神経症的欲求を自然で適度な欲求へと癒していくような文化を、やりようによってはこれから創出し
うるということです。
「あらゆる権力は腐敗する」?
2006年9月25日
ここで、最初に言った結論をくり返しますが、4象限の条件すべてを調えることができれば、プロセスは困難だ
としても、持続可能な人類社会の実現の可能性はあるということです。
そこで、私は自分の研究所を通じて、必要な条件についての基本的な認識を確立し、それから広く合意を獲
得し、それからできたらそれを運動に高めていきたい、そういう運動のリーダーを育てる機関として総合学園も
設立していきたいと考えてきました。
最後に、私のそういう発言・行動に対してまわりの方たちが感じ、忠告してくださった「危険」について、ここ
で、あえてお答えしておきたいと思います。
まず何よりも、危険があることは事実だ、と私自身考えています。
新しいことをすること、しかも集団あるいは運動としてすることには、必ず大なり小なり腐敗の危険がともなう
ものだからです。
ふつうの人間には必ず、潜在的な自己実体視・自己絶対視の傾向――唯識でいえば〈マナ識〉――があり、
足をすくわれる、腐敗する危険がいつでもあります。
そして、自己絶対視の傾向のある人間同士で事を始めると、絶対化された自己主張のぶつかりあいが起こ
り、こだわりの強い人間が力をもって他の人を支配することになる危険もたえずあるわけです。
そういう危険を単純に避けたいと思ったら、自己主張がぶつからないように、支配したりされたりしないよう
に、いつも人と距離を取っておくしかありません。
私の見るところ、例えばネットワーキングという方式は、そういう自己絶対視によるトラブルを最小限にとどめ
るため距離の取り方として、なかなかよく考えられた工夫です。
もし、ネットワーキング方式で、しかも社会の主権を握ることなしに、社会がよくなる、持続可能な社会が出来
るのなら、それでいいのです。
しかし、くり返し言うように、この30年以上、それはできなかったし、これからもできない、どころか問題はどん
どん悪化していきそうだ、というところに問題があるのです。
私はどんどん進行する環境破壊のデータを追いかけているので、運動や組織を作るのは「危険だ」と忠告し
てくださる方にあえて問いたくなるのは、「こういう大きな危険と、それをなんとかしようとして運動を起こすことの
危険と、どちらがより大きな危険だと思いますか」ということです。
運動・組織の腐敗・堕落の可能性という小さな危険を恐れて、進行している大きな危険を放置することは、そ
れこそおそろしく危険なことなのではないでしょうか。
そうしたことを考えながら、私があえてある種の組織を始めているのは、次のように考えたからです。
ふつうの人間には、確かに志と野心(〈マナ識〉の働き)が混在しているものです。それは、善意の人でも避け
られないことです(唯識的に言えば、善意自体マナ識の働きなのですから)。
ですから、いっさい野心がなくなってからでないと組織や運動を立ち上げてはいけないとすると、まずほとんど
誰にもできないことになるでしょう。
ところが問題は、結果として環境破壊をもたらすような組織や運動、というより巨大な「社会システム」がすで
に存在していて、現に働いているということです。
止めようとするものがなければ、やがて崩壊して、いやおうなしに止まってしまうというところに到るまでは、止
まらないでしょう。
そこで、もし崩壊を止めるための組織や運動はやはり必要だとすると、どうしたら、そういう組織や運動の腐
敗を最小限にくい止めることができるかということです。
私は、ふつうの人間がやることに腐敗ゼロなどということがあるという、子どもじみた理想的な空想はしていま
せん。
そうではなく、腐敗・堕落を最小限、許容範囲にとどめることができるかどうか、どういう大人の工夫ができる
かが問題だと思っています。
そして、その外面的・システム的な保証は、まず構成メンバーについて徹底的に出入り自由にしておくことだ
と考え、私の研究所では、長年その原則を貫いてきました。
といっても、私の研究所は、政治・経済も含めた新しい文明、自然成長型文明の創造のための人材育成を
目指すもので、直接的に政治に関わる意思はありません。
政治的な組織であれば、さらに指導者のリコール制も必要でしょうが、学びの一貫性ということからいうと、む
しろ私塾的に一つの方針を貫くほうがいいと考えて、合議―多数決制は採っていません。
さらに、その内面的な保証としては、指導者もメンバーも、少なくとも自分の中の志と野心の混在に気づいて
いることが必要ですし、限りなく志の部分を大きく、野心の部分を小さくしていくよう、自己成長を続けるという意
思も必要でしょう。私が何よりも力を注いできたのは、その点です。
それでも、なお、未完成な人間がやっていることである以上、「おかしくなる危険」は残るでしょう。
しかし私は、自分も含めておかしくなる危険よりも、進行する崩壊を見過ごし、放置する危険のほうが、はる
かに限りなく大きな危険だと思い、あえて一歩を踏み出してきましたし、みなさんの参加もお誘いしています。
さらに、何度も言っていますが、最近知っていい意味で大きな衝撃を受けたのは、スウェーデンの実例です。
スウェーデン民主主義については、ほとんど岡沢憲芙氏の研究から学ばせていただきました。何冊も読みま
したが、なかでも一冊だけおすすめの本を選ぶとしたら、岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)です。
それらの研究を読むかぎり、指導者の倫理性(左上)と、そうした指導者を次々を生み出しそういう人を選ぶ
という国民性・国民文化(左下)と、そうした指導者たち自身が創り上げてきた腐敗を最小限にとどめる社会・
政治システム(例えば情報公開制、オンブズマン制など)が調っていれば、腐敗最小限の政治は可能だ、と判
断していいようです。
私自身つい最近まで捉われていた「あらゆる権力は腐敗する」という命題(テーゼ)がありますが、それは歴
史的実例としてファシズムやスターリニズム化した社会主義国ばかりに注目してきたための考えすぎで、国際
調査によれば*、北欧諸国やスイス、オーストラリア、オーストリアのように「あまり腐敗しない権力も存在しう
る」と考えてまちがいないようです(もちろんゼロだなどと理想化はしているわけではありません)。
環境と経済のバランスに関してだけでなく、政治・民主主義のシステムについてもスウェーデンは1つの学ぶ
べきモデルだと思います。
スウェーデンなどの成熟したデモクラシーについて学ぶことによって、私たち日本人が長いこと罹っていた「政
治アレルギー」の治癒が可能になるのではないか、と私は期待しています。
もちろん、こうしたことをお読みいただいても、やはり危険を感じて遠ざかることも、まだ参加はしないけれど
関心はもち続けていただくことも、あえて危険を冒して本格的に参加していただくことも、どれもオーケーです
が、次の世代の子どもたちの未来のために、できれば一人でも多く本格的に参加していただきたいと切望して
います。
(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所
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