岡野守也

  ※改訂版(2006年)も掲載中です。

はじめに

  私たちの世界が「エコロジカルな危機」にあることは、多くの専門家の方たちが早くから警告してきたとおりで す。七〇年代の始めの頃、ローマ・クラブの『成長の限界』(邦訳ダイヤモンド社)やレイチェル・カーソンの『沈黙 の春』(新潮文庫)など、専門家の報告を読んで以来、私も大きな危機感を感じ、この三十年近く、自分の思想 的な最重要テーマの一つとして、いろいろ学び、考えてきました。
 といっても、私は、環境問題そのものの専門家ではなく、いわば心理学や意識・霊性・宗教に関わる分野が専 門なのですが、そういう視点から見える、言える、原理的なことがあると思って、いろいろな機会に発言し、ある 種の運動を提案してきました。
  しかし、この三十年間、発言し、提案するたびに、いろんな人から「岡野さんは、どうしてそんなにあせるんで すか。あせりすぎじゃないですか。あせりすぎると、危険ですよ」と言われてきました。ずいぶんたくさんの方か ら、同じような言葉を聞きました。しかし私も若気の至りで、逆にどうしてみんながそんなにあせらないでいられ るのかが、最近までよく了解できませんでした。まったくお恥ずかしく、残念なかぎりですが。
  九八年に二十年あまり勤めた出版社を辞めて、サングラハ心理学研究所を通じて、執筆や講演といった広 報と、特に人材育成のための活動に専心するのを決めたときにも、ほぼ同じことを、何人かに言われました。 そういうことを言ってくださる方は、ほとんど親しい先輩や友人・知人で、私に対してぜんぜん悪意はありませ ん。まったく悪意なく、それどころか善意で、「そんなにあせらなくてもいいんじゃない。物事は、そんなに急には 動かないよ」と忠告したり、慰めたりしてくれたわけです。
  それに対して私は、慰められるよりは、危機感を共有できない――したがって当然行動も
共有できない――ことに、いらだちやもどかしさを感じてきましたが、最近になって、あまりにも単純なことに気 がついたのです。すごくうかつだったのですが、危機に関してデータを共有できていなかったようだということで す。
  それに気づいてから、何人にも確かめましたが、私のまわりの善意のある、問題意識もある方でも、ほとんど の方が、私と共通のデータを読んでおられなかったのです。失礼な言い方になって申し訳ないのですが、多くの 方が地球環境について「なんとなく大変らしい」という捉え方をしていて、危機のデータと予測を正確につかんで おられないようです。これは、かなり多くの実際に環境運動をしている市民のリーダー的な方たちさえそうでした から、ほんとうに驚いてしまいました。
  つまり、肝心の危機のデータと予測を共有していない方に、危機感だけ共有しようと迫ったら、「どうしてそん なにあせるんですか。危険ですよ」と言われてきたわけです。これは当然と言えば当然のことで、もっと前に気 がついていれば、もっと別の手があったのになという気がしてなりません。
  ひとことで「エコロジカルに持続可能な社会・世界を創り出していかなければならない」という言い方をすると、 そういう建て前は、今まともに物を考えている人であれば誰もが認めざるをえない大前提だろうと思います。こ の建て前を公の場でまともに話をしたら、否定する人はまずいないという状況にあると思います。
  ところが公式の場ではなく、例えばお酒の席などで本音を話し始めると、しょっちゅう聞くのは、「それはそうな んだけれども、それは無理なんじゃないかなあ」「それはできないんじゃないかなあ」という声です。それどころ か、本音として言うと「エコロジカルに持続可能な世界全体の秩序を創り出していくということは、しなくてはいけ ないことなんだけれど、できないんじゃないか」という思いを持っている方のほうが、かなり圧倒的と言ってもいい くらい多いような気がします。そして、もう一歩掘り下げて言うと、「できなくても、何とかなるんじゃないか」と、心 のどこかで、本音のところでは思っているところがあるのではないかと思えます。もしかすると、それは、データ と予測の厳しさを十分見ておられないために、楽観的でいられるのではないでしょうか。
  今言いましたように、公式の場では建て前は例えば「地球にやさしい」とか「持続可能な」といった言葉が語ら れます。ところが、本音はなかなかそうでもない。そういうふうな建て前とか、ましてや甘い願望とか、実現しない 夢に終わらないために、まずどれくらい困難かということについて認識を共有するという作業をポイントだけでも やっておきたいのです。それからさらに必要な条件についての合意というかたちに入っていきたいと思います。
  ごく日常的な言い方をすると、以下のようなデータを学んだせいで、人類の未来が心配で心配で、それでよせ ばいいのに、ついあせったように聞こえる提案をしてしまうわけなんです。そういう気持ちを共有していただける と幸いです。


 危機のデータのポイント

 環境の危機を警告するデータは、『成長の限界』(ダイヤモンド社)、ワールドウォッチ研究所の『地球白書』お よび『地球データブック』(どちらもダイヤモンド社)、石弘之さんの『地球環境報告』、『地球環境報告U』(どちら も岩波新書)など、山ほど出ています。こういうデータはほぼ信用していいだろうと思っているのですが、そのデ ータのしかもポイントをきちんと押さえると、いま我々がおかれている状況がきわめて困難だということが、感覚 としてではなく、認識としてはっきりしてきます。


【人口問題】
  まず、今の世界全体が抱えている問題の一つの大きなポイントは人口問題のようです。人類の歴史の中で 人口問題を見てみると、国連推計によると、紀元前後(二千年前)が二・五億人ぐらいと推測されています。そ れから倍になるのに千六百年かかっています。一六〇〇年ごろ五億人ぐらい。ところが一〇億になるのが一八 三〇年くらいだとされています。つまり、二百三十年で倍、というか倍倍です。それから一九三〇年には二〇 億、つまり百年でさらにその倍になったわけです。一九七〇年に四〇億、これは四五年で倍になっているわけ です。グラフをご覧になったことがある方はおわかりのとおり、すごい曲線を描いて人口が増加している状況に あるわけです。一九九五年が五六・九億。国連の去年あたりの推測だと、二〇二〇年に八〇億という推測をし ていましたが、いま幅をもたせて二〇五〇年に八〇億から一〇〇億くらいと推測しているようです。いずれにせ よ、二〇二〇年というのは二十年後ということです。そこまで人口が増えるのにあとわずか二十年です。九六年 以後、パーセンテージだけはわずかに下がったんだそうですが、それでも毎年八千万人以上増えているという ことです。

  『成長の限界』というレポートを出したローマクラブは、一九六八年に集会が行なわれて七〇年に発足した、 財界人、政治家たちの地球の未来を考える研究グループです。七二年の段階でレポートを出しましたが、その 時点の予測が二〇〇〇年に五六億という予測でした。ところが、実際には九五年にすでに五六・九億になって いるのです。つまり予測よりも五年早く五六億を超えてしまったわけです。
  『成長の限界』の序論に、国連事務総長のウ・タントさんが、そういう予測に基づいてした、六九年の発言が 載っています。
  「私は芝居がかっていると思われたくはないけれども、事務総長として私が承知している情報からつぎのよう な結論を下し得るのみである。すなわち、国際連合加盟諸国が古くからの係争をさし控え、軍拡競争の抑制、 人間環境の改善、人口爆発の回避、および開発努力に必要な力の供与を目指して世界的な協力を開始する ために残された年月は、おそらくあと十年しかない。もしもこのような世界的な協力が今後十年間のうちに進展 しないならば、私が指摘した問題は驚くべき程度にまで深刻化し、我々の制御能力をこえるにいたるであろう。」
  これは、六九年時点の発言です。「芝居がかっていると思われたくはないけれども、データに基づいてこう言 わざるを得ない」と国連事務総長が言っており、そういったことを踏まえた学者たちの警告にもかかわらず、人 口に関してはまったく抑制できないまま三十年を経たということです。
  まずこの一事だけを取り上げても、我々がおかれている状況がいったいどういうことなのかが、基本的に認 識できると思います。ただ日本では、少子化現象が進んでいて、やがてこれから人口が減るだろうと言われて いて、あまり深刻感がありません。しかし、これは世界レベルでは当然、これだけ食糧増産をこれからやってい かないと、億単位の餓死者が出るということです。しかも、二〇二〇年に向けて、あと二十年しか余裕がないと いうことです。


【食糧増産】
  それに対して、穀物の収穫量がどうなっているか、おおまかに見てみましょう。一九五〇年には六億三〇〇 〇万トン、七五年に一二億三〇〇〇万トンと約倍増しています。九六年推定では一八億四〇〇〇万トン。つま り五〇年からいうと三倍に増えています。人口は五〇年から九六年で約二・二五倍です。それに対して食糧は 三倍に増産できています。
  これなら大丈夫じゃないか、という感じがするかもしれませんが、実はこれは森林を耕地に転化しながら、膨 大な化学肥料と農薬を費やして土壌汚染をやりながら、たいへんな量の地下水資源を汲み上げて灌漑をしな がらここまできたわけです。つまり環境の汚染、破壊、そして資源の浪費を前提にしてここまできたということで す。
  これから毎年八〇〇〇万人増えていくということは、穀物だけでも二六〇〇万トン必要だということですが、す でに耕地の増加、水資源、土壌の汚染流出が許容のほぼ限界にきているというのが、例えば国連農業機関や その他の信用していいと思われる機関の認識です。必要な食糧は穀物だけではありませんが、海洋資源も基 本的には同じような状況にあるようです。


【森林の減少】
  このように例えば森林を耕地に転化しながら食糧増産をやってきて、それがほぼ限度にあるという状況の中 で、「地球にやさしい」とか「地球の緑を守る」といったセリフが、希望があるかのごとく語られているのですが、 毎年地球の森林がどれくらいなくなっているか、ご存じでしょうか。
  国連食糧農業機関やアメリカ政府の推定によると、一一万から二〇万平方キロメートルの森林が毎年なくな っています。日本の国土総面積が約三七万七〇〇〇平方キロメートルですから、つまり日本国土の三分の一 ないし二分の一、多めに見積もると二分の一以上の緑が毎年なくなっています。これは、つまり森林の減少は 止まっていないということです。
  この止まっていないということが問題です。人口増加に関しても止まっていない。森林の喪失についても止ま っていない。こういう問題が、ひじょうに世界的レベルでのデータに基づいて警告として出されたのが、早めに見 て一九六九年です。ローマクラブ・レポート『成長の限界』と見ても、七二年です。すでに約三十年は経っている のです。三十年間、事態は何もよくなっていないのです。
  こういう言い方をすると、エコロジー関係の運動を一生懸命やっている方にすごくいやがられます。「私たち が、こんなに一生懸命やっているのに、何もよくなっていないという言い方はなんですか」と。だから、訂正して 「いろいろ努力はなされていて、環境破壊のスピードを遅くする効果はあったとは思いますが、しかし基本的に 止まっていない、と言い換えましょう。数字的にはそう認識せざるを得ません」と言うと、いやいやながらわかっ てくださるのです。
  あと細かいことのデータは、例えばワールドウォッチ研究所『地球データブック』を一度しっかりとご覧いただく と、どういうことなのかが一層よくわかっていただけると思います。


【生物種の滅亡】
  人間の近代以降、とくにこの百年、とくにこの三、四十年の間に行なってきた産業活動による環境破壊汚染 の結果だと推測される、他の生物種に対する影響がどれくらいかも見ておきたいと思います。
  世界の生物種は毎日何種類ずつくらい滅びているとお思いでしょうか。米国科学アカデミーの発表によると、 毎日――間違えないでいただきたいのですが、毎年ではありませんし、毎月でもないのです――毎日約二〇〇 種の生物が消滅しています。そして、それはずっと止まっていない。これはどういうことかをきちんと受け止めな いといけません。「なんとなくたいへんらしい」「私たちにできる範囲の努力をしましょう」といった発想では、三十 年間、よくならなかったのです。ですから、環境に関わる思想と行動の発想を根本的に変えなければいけないと 私は思っていて、根本的に変えるための提言をしてきました。
  地球の生物種は確認されているところで、約一五〇万種だそうです。未確認のもののほうが多いらしく、五〇 〇万から三〇〇〇万種ぐらいいるのではないだろうかと推測されています。毎日二〇〇種ずつ滅びていくと、二 〇五〇年ころまでに絶滅種は二〇〇万種にのぼるだろうといわれています。現存が確認されているのが一五 〇万種です。確認されている数よりも多い数が滅びるだろうということを、米国科学アカデミーが公式の発表とし て予想しているのです。これが私たちのおかれている状況です。
  この他あげていけば、地球温暖化、オゾン層の破壊、放射能汚染、環境ホルモンなどなど、ずいぶんいろい ろな、深刻なデータがもっと山ほどあるのですが、このくらいのポイントをあげるだけでも、少なくともどれくらい 私たちが絶望的な状況にあるかということを数値で確認していただけると思うのです。
  くり返しますが、一九六九年、「あと十年しか余裕がない」と国連事務総長の警告があって、すでに三十年経 ったのです。これが今私たちのおかれている状況だということです


 警告や努力にもかかわらず全体状況は悪化している

  ここで確認を共有したいのですが、すでに六九年に警告はあったし、さまざまな人やグループが誠実で真剣 な努力を重ねてきたことは間違いありません。しかし、地球環境は全体としては悪化しています。このことをはっ きり認識しなくてはいけないと思います。さまざまな真剣で誠実な努力が、悪化の速度を遅くするうえで大きな貢 献をしたことは確かですし、一生懸命やってこられたことにケチをつけようという気持ちはまったくありません。し かし、冷静にみると、にもかかわらず全体状況はあきらかに悪化しているのです。
  ということは、私たちがもしほんとうに持続可能な世界を創り出したいのならば、はっきり「今までの対処のし かたは十分有効ではなかった」と認識すべきなのです。三十年やってダメだったのですから。三十年やってダメ だった方式を、「このままもっと続ければ、そのうちなんとかなるだろう、という発想は、この際やめませんか」と 提案したいのです。
  ただし、「今やっていることはムダだからやめよう」と言っているのではありません。今やっていることに意味 はあるけれども、それでも止まらない。だから、「止めたいんだったら、今やっていること以外に、ほんとうに止め ることができるような方法を、これから新たに考えていかなくてはいけないのではないでしょうか、一緒に考えま せんか」と言いたいのです。


  なぜ止まらないか

  そこで次に、三十年間なぜ止まらなかったか、私の解釈をお話しします。
  政治家、官僚、経済人の多数、つまり社会のある意味で主流にある方たちは、多くの市民のみなさんと同 様、さきほど紹介したようなデータを横目でチラっと見たものの、深刻さがわかるところまできちんとは読まない ですませているように思えるのですが、どうでしょうか。ですから、いろいろな政党の政策課題を見ると、八番目 とか十番目とかぐらいに環境と出てくるのだと思います(ごく最近は少しましになりましたが)。警告から三十年た った今でも日本では、環境を最優先課題にしている有力政党は一つもありません。最優先課題とはしない、つ まり本命じゃないということです。
  学者やマスコミ関係者のみなさんは、警告、批判、問題提起はすごくするのですが、それでとどまってしまい がちです。もちろんねばり強く長年市民運動に関わってきた方もいらっしゃいますが、運動に関わらず客観的な 立場を保って、学者として冷静な知識や認識をお伝えする、警告するという姿勢を堅持する学者さんが多いの ではないでしょうか。
  そして市民は何をしているかというと、ほとんどが抗議行動と批判とネットワーキングです。
  これはつまり、持続可能な社会を創造することを本気で最優先課題とする人やそういう集団が社会の主導権 を握っていないということです。それは、主導権を握れなかったというだけでなく、握ろうというしっかりとした意思 がなかったからだ、と私は見ています。
  なぜそういうことになったのかというと、七〇年までの日本の革新運動、市民・学生運動が七〇年で大きな挫 折を体験し、そのまま回復していないからではないでしょうか。それ以後、心ある市民ほど、政治不信というか、 深刻な政治・運動・組織アレルギーに陥っていると思います。多くの市民は、本格的に大きな運動や組織を立ち 上げることをきわめて嫌って、ネットワーキング方式で一生懸命いいことをやってきたのですが、決して政治・経 済の主導権を握ろうとはしてこなかったように見えます。
  しかしこのことは、日本の民主主義がきわめて未成熟、ほとんどないに等しいということを表わしていると思 います。今さら言う必要もないほどのことですが、デモクラシーの原語のギリシャ語は「デーモス・クラティア」で す。「クラティア」というのは権力ということです。民主主義というのは、「市民が権力を握る」ということです。民主 主義、「人民が主になる」というと言い方がソフトになってしまいますが、本来の民主主義は「市民が権力を握 る」ということです。「責任をもって権力をになう」ということです。
  日本国憲法の前文では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来 し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」となっています。つまり国の 政治というものは、(1)国民に信託された「国民の代表者」が、(2)「国民の福祉のために」、(3)「権力を行使する」 ものだ、ということです。この三つの要素のどれが欠けても、政治は歪んでいきます。
  そして、現在の日本の市民――はっきり「国民」という言葉を使うのに抵抗があり、こういう言い方になりがち なところにすでに大きな問題が潜んでいると思いますが――というより、「国民」の多くが忘れていることは、(1) (2)を大前提として、しかしはっきり(3)がなければ、国政=国全体の政治は動かないということです。国政レベル の対策なしに、環境問題が根本的に解決するとは思えません。
  ところが、今日本のいわば良識派の市民=国民は「権力をもつとすぐ腐敗するのだ」と思って、「権力は握ら ないほうがいい、権力に対して絶えず距離をおいて、いつも批判的な立場で抗議行動をする」というスタイルをと ります。そして、ネットワークを広げているとそのうち世の中がよくなるのではないかと思って三十年やったけれ ども、よくならなかったのです。少なくとも、こと環境についてはよくなっていないと、私は思います。
  つまり、心ある民衆・国民が、国民の代表として、国民の利益のために、権力を握るということをはっきりと自 覚的に課題にしなければ、先に進めないのです。政治・運動アレルギーを克服しないかぎり、日本人は先に進 めないと思います。


 ありうる未来の三つのシナリオ

  このような現状のまま進むと、どういうことが起こるか、大まかにみて三つのシナリオが描けると私は考えて います。
  第一は、問題先送りです。つまり最優先課題にしていない人が主導権を握っているのですから、当然問題は 後回し―先送りになっています。そうすると、早めに考えるとまず二〇二〇年くらいには世界的な環境危機がき そうですから、その混乱の中に日本も巻き込まれながら崩壊していく。しかし、人類が突然絶滅するとは思えま せんから、世界全体としては大きな混乱の中で悲惨な生き残りをしていくでしょう。そうとう悲惨な状況になったう えで、非常に数が少なくなって、荒廃しきった環境条件の中でわずかな人類が細々と生き残るという事態が、二 十年から五十年後に起こることが十分推測できます。
  とはいっても、それまでの国の政策の違いによって、それぞれの国の状況はかなり格差が出るでしょう。
  例えば代表的には石弘之さんが『地球環境報告U』のあとがきで、「日本はまるでタイタニック号だ。氷山が 間近に迫っているのに、みんなちっとも対応しない」といったことを書いていらっしゃいます。石さんは、東大大学 院の国際環境科学の教授で、国連環境計画の顧問もされた、世界的データもよく把握されたきちんとした認識 をされている方で、その石さんが、自分と仲間の学者たちの把握しているデータから言うと二〇二〇年あたりが とても危険であると本気で警告されています。
  第二は、それに近いんですが、形式上は「対策策定」をして「実行」していることになっている、というシナリオ です。とくに先進国ではどこでも、それなりに対策を策定して、実行していることになっている。日本だって、環境 庁ができて、環境省に格上げになり、そこにたくさん優秀な官僚がいて、いろいろ資料を作りあげて、いろいろ プランを作ってということをやっているんですが、それは、実行といっても、ある程度の実行です。だから、一〇 〇パーセントの問題先送りよりはましですが、結局、崩壊の若干の先延ばしにしかなっていないと思われます。
  第三は、きわめて難しい、かすかな可能性ですが、はっきりとどこへいくのかの目標設定をして、本格的な実 行をして、持続可能な世界秩序を創り出すというシナリオです。

 これからの世界は、大まかにいってこの三つのシナリオしかないだろうと思います。


 いちばんありうるのは先送り・先延ばし

 ところが、先進工業国の多数は、本音では今の資源浪費型の高度産業社会――これは表裏の関係で高度 消費社会でもありますが――をやめたくないのです。しかし本音を公式の場で言うとデータと矛盾しますから、 そこで考え出したのが、つい数年前の「持続可能な開発」というコンセプトではないでしょうか。
  したがって本音はそうではないですから、実際にやることを見ていると、最優先・最重要課題としてお金や人 やいろんなことをどこまで注ぐかをみていると、いつも問題先送りになっているのです。日本でいうと三十年ずっ と問題先送りです。世界全体もそうです。そのツケがそろそろはっきりまわってきそうだということです。
  問題先送りといっても、最初から先送りをしようというわけにはいかないので、公式にはどうするかというと、 対策を策定しましょう、ということになります。まず事実を確認しましょうということで、研究調査が始まります。研 究調査に暫定的な結論を出すために一年かかるとか数年かかると言っています。その間、疑わしきものはどん どん放置されます。疑わしきものが放置されるということを三十年もそれ以上もやっていて、疑わしきものはど んどん増えてきているのです。
  近代科学以来、化学物質は一千数百万種つくられたんだそうです。このうちのどれくらいが内分泌攪乱物質 つまり環境ホルモンなのか、一千数百万種について、誰が研究してどういうマニュアルをつくって、どうやってコ ントロールをするのでしょうか。人類、科学者は、化学物質を一千数百万種つくって、まだやめていないのです。
  ともかく、問題があることは事実ですから、問題があります、研究しましょう、事実を認識しましょう、とさんざん すったもんだとやったあげく、そこで学者間の学説の違いによって割引が必ず起こるのです。いちばん深刻に 予測する人とさほど深刻に予測しない人の間の中間くらいの結論しか公式には出せないのです。そこでまず割 引が起こります。
  次に対策策定がなされるのですが、この対策策定というのは公文書だけ見ると(例えば典型的には「環境基 本計画」ですが)、結構がんばってやってくれるんだと思って期待するのですが、実行段階を見ていると、書いて あることの半分も実行されません。ここでもまた割引が起こるわけです。
  こういうふうにして、どんどん割引が起こるという人間的なマイナス要素が必ず加わってきますから、対策策 定からある程度の実行というふうにしかなりません。対策策定そのものが危機のいちばん深刻な予想に基づい てなされないうえに、実行段階では割り引きされますから、問題は先延ばしになるだけです。
  つまり、公式の世界では、建て前が第二のシナリオ、実態は第一のシナリオに限りなく近いということが起こ ってきたし、今でも続いているのです。


  問題への二つのアプローチ法

  さて、こういう問題を考えるときに、アプローチのしかたが大きくいって二種類あります。
  問題解決のアプローチとしては、ふつうほとんど例外なくまさに「問題解決法」と呼ばれる方法が採られます。 これは、まず現状認識から始まります。それから原因分析を行ないます。それから対策策定が行なわれて、実 行がなされるわけです。
  ところが、問題は、すでに言ったとおり、この間で段階を追うごとに割引がなされるということです。問題解決 法というのはそもそも起こっていることを問題・マイナスと見ていますから、できるだけその問題でマイナスの努 力をしたくないという心理が必ず働くわけです。例えば「環境汚染をなんとかするための財政負担をどうしよう」と いった発想になるわけです。負担・マイナスととらえると、なるべくそれを減らしたくなります。当然心理的に、あ るいは実際財政的に割引、割引ということで、「問題解決法」というアプローチですると、必ず実行段階になると そうとうに割り引かれた実行しかできないのです。ところが公式の機関がやるのは全部この手法です。ですか ら、ほんとうにやりたいのであれば、私に言わせると、そういう手法だけでは足りないのです。
  それに対して、より有効だと思うのは、「願望実現法」というアプローチです。先ほどの第三のシナリオを実現 しようとする場合、どうすればいいかというと、我々はどこに行きたいのか、どこに行かなくてはいけないのか、と いうヴィジョンをはっきり目標として設定するということです。つまり、高度産業社会、高度浪費社会はこのまま 続けることはできないとしたら、そうでないエコロジカルに持続可能な社会に行かなくてはいけないんだ、行きた いんだ、それが人類の行かざるを得ない目標である、ということをはっきりと割引なしにヴィジョン設定をすると いうことです。
  次に、それが実際に具体化したらどういうことになるのかをイメージ化してみます。
  そして、それにもし参加するのであれば、もうそれは実現すべきものだから、実現するんだというふうに信じる しかないのです。先ほどからお話ししているようなことを確率的にいえば、私は人類はこの先ほとんど見込みが ないと読んでいます。にもかかわらず、その先に行きたいんだという願望が自分の中にあるのであれば、もう 「行くんだ、行けるんだ」とまず自分の中で信念を確立するしかないのです。
  そうすると、何が起こってくるかというと、私たちの心の中に「行く」というエネルギーが湧いてくるのです。「そ こに行くんだ、行かなくっちゃ、行きたい」というエネルギーが国民的な規模で獲得できるかどうかというのが、実 は一番大きな問題だと私は考えています。
  みんなが「なんとなく大変なのはわかっているけど、それに関わるのはめんどくさいし、大変だし、疲れるし、 暗くなるし……」と言っていたのでは、起こることが起こってしまうのです。先ほどの問題解決法だと必ず「犠牲 を払う」という話になるのですが、それに対して、願望実現法という手法を使って、これから先人類が向かうべき 行き着く先を希望のある世界としてヴィジョンをきちんと描き出せたら、そこに行きたくなり、そこでする努力は 「自分の夢のための先行投資だ」という発想に変わるのです。私たちがこういうことに関わるときに、自分たち の未来のため、夢のために先行投資をするんだという発想を確立することです。
  しかし、今きわめて高度に発達した産業社会ですから、これを今日や明日に変えるわけにはいきません。エ コロジカルに持続可能な社会と高度産業社会の間には、そうとう大きな距離があります。
  この距離だけを考えると絶望しそうになるのですが、そこで私たちは近代以降の理性の時代に生きている人 間ですから理性を使わなくてはいけません。どんなに遠くてもステップを踏んでプロセスを踏んで歩んでいけば、 目的地に到達するということです。プロセスをはっきりと意識的に設計するということです。どこに行きたいのか がはっきりしたら、そこに到達するためのプロセスを設計するのです。
  このプロセスの設計というのは、ヴィジョンさえ確立してしまえば、日本には細かいプロセスが設計できる非常 に優秀な能力をもった学者や官僚はたくさんいますから、少なくとも国民、国民の代表としての主権者がこっち に行くんだと決めて、学者と官僚に発注すれば、プロセス設計は間違いなくやってくれます。それを実行・実現 すればいいわけです。幸いにして、すでにある程度のプランは、学者の中からも、通産省や環境庁の官僚の中 からも出てきているようですから、それをさらにはっきり政治・経済の主流として方向づければいいわけです。
  そこで、願望実現法というかたちで実際に実現していくためには、どうしても必要な条件があります。それにつ いて、ざっとお話ししていきます。


 ウィルバーの「存在の四つの象限」

  ケン・ウィルバーという、おそらく時代を画するような若い思想家がいて、『進化の構造』(松永太郎訳、春秋 社)という本を書いています。これはぜひお読みいただきたいのですが、この中で非常に重要な指摘をしている のは、この世界、あるいは人間を全体としてとらえるときに、我々は四つの象限を全部見る必要があるというこ とです。
  四象限をわかりやすく図式化すると、縦軸、横軸で区切られたグラフになります。上は個別・個人の象限、下 は集団とか社会の象限、右は外面、左は内面です。この四つの象限で物を考えないと、世界の全体像が見え てこないということを非常に詳細に説得的に語っていて、目から鱗が落ちるという本です。



  例えば消費行動というのは、まず外側で見える個別の行動です(右上象限)。それは実は購買意欲という個 人の心の中・内面で起こっていることと関わっています(左上象限)。ところが、いくら買いたいと思っても、貨幣 経済という集団の共有する文化(左下象限)がなければ、ただの紙であるお札がお金と見なされて、物を買える ということが起こりません。さらに、実際に買い物ができるためには、社会の外面として商品流通システム(右下 象限)があって、商品が流通していなくてはいけません。
  他のことについても自分でシミュレーションしていただくと納得いくと思いますが、こういうふうに、私たちの世 界で起こっていることにはすべて必ず、四つの象限があるというのです。
  そういう視点から見ると、これまでエコロジーが問題になってきたとき、エコロジカルな技術や消費者行動をど うしたらいいか、あるいは環境にやさしい社会システムはどうやったらできるのか、という外面・右側象限の話は かなり深められてきたけれども、左側が十分ではなかったのではないかということが見えてきます。例えばいち ばん典型的なのは、国連大学が中心になってやっているゼロ・エミッション社会の構想です。あれは外面の形と していえば、実現できるのなら、とりあえずはほぼそれでいいわけです。
  ところが、日本国民の一人一人ということになると、そういうことをほんとうにやる気があるんでしょうか。さら に、日本国民の中でそれをやるほんとうに実行力のある集団、あるいは国民的合意が獲得できているのか、と いう問題になると、ここはほとんど抜けているのです。本音で言うと、「無理なんじゃないの」と国民の大多数が 思っていたり、とくに指導者たちは「今の高度産業社会を急に変えるわけにはいかないじゃないか」「まず景気 対策が先だよ」「いくら環境を壊すといっても、やっぱり公共事業をやらないと景気は回復しないだろう」という話 になってしまうのです。ここのところについては先ほども言ったように、市民や学者は批判をするというかたちだ けで、どうやって私の、どうやって国民全員の内面を変えていくかという基本的な視点や方法をもたなかったと いうことです。これは三十年一生懸命外側のことをやったのだけれど、リーダーの気持ちは変わらないし、国民 の大多数の気持ちは変わらなかったので、全体にそういう文化は形成されなかったということではないでしょう か。そして世界全体としては、後進国は先進国に追いつこう、先進国はやっぱり先に進もう、ということになって いるわけです。
  では、ほんとうにエコロジカルな社会の実現には何が必要かというと、まず第一象限では「環境に調和した個 別の技術や個人の行動」です。これをどうすればいいかについては、そうとう程度見通しがついていると私は考 えています。
  次に、第二象限の「環境と調和した生き方をするのがいちばんいい生き方でいちばん幸せなんだと感じるよ うな個人の欲求構造」です。環境を壊してまでぜいたくな生活はしたくない、しちゃいけないのではなく、したくな いと思うような心の欲求構造のあり方です。
  それから第三象限の、環境との調和を最優先して、なおかつ個人に対しては自然な欲求を育んでいくような 方向付けを絶えずするような文化です。つまり、例えば学校で教わっていると自然と環境を壊すようなことをした くなくなるような教育が行なわれているような社会ということです。
  そしてもちろん、第四象限の、環境と調和した社会、とくに生産システムが必要です。この四つの象限の条件 が全部がそろえばなんとかなるということです。
  そして、この中の右上象限と右下象限のヴィジョンについては、私はほぼ重要なところはすでにできていると 見ています。簡単な言い方をすれば、当面はオールタナティブ・テクノロジーとゼロ・エミッション―リサイクル型 社会です。それだけでは究極はダメで、行き着くべき先は〈自然成長型文明〉という文明の方向を考えていま す。これについては、あとで少しふれたいと思います。
 ほんとうに持続可能な社会秩序を創り出すために必要なものは四つの側面であり、四つの側面の中をさらに 実行レベルでいうと、まずヴィジョンが必要だということです。目標設定をするためには、ヴィジョンが必要です。 それから高度産業社会からその自然成長型文明まですごい距離がありますから、それを縮めるためのプロセ スをどうやって設計するかという発想です。
  そして今いちばん欠けていて、いちばん大事なのは、主体の問題です。誰がそれをやるのかということです。
  私は譬えとしてよく言うのですが、ネズミとネコの寓話をご存じでしょうか。ネコがネズミを絶えず食べにきて 仲間たちがどんどん減っている、「どうしよう」とネズミたちが相談します。「ネコの首に鈴をつけたら、来るのが わかるから逃げられる」という意見が出て、「それはいい、それはいい」と全員が同意しましたが、さて、誰がや るのかということになったときに、みんなやりたがらなかったのです。そして結局、一匹ずつ食べられていって全 滅しましたという話です。
  それに似て、ヴィジョンとプロセスの設計ができても、実行の主体がなかったら何にもなりません。国民が「私 が実行の主体になるんだ」という意欲をもたないかぎり、「政治家がやるべきだ、官僚がやるべきだ、学者が考 えるべきだ」と言っているあいだは――三十年間できなかったので、その傾向は変わっていませんから――で きないでしょう。だから、「やらないのなら私がやる」、つまりデーモス・クラトスです。「あなたたち主権者がやらな いのであれば、私たち国民が主権者になります」、そういう決意を国民がもたないとダメということです。そのと き、それだけのエネルギーや意欲を日本人が、あるいは人類がもちうるかという主体の問題がいちばん大事で 深刻です。


  〈自然成長型文明〉というヴィジョン

しかし、ヴィジョンが楽しければ、楽しいヴィジョンのための先行投資の努力であればする気が出てくるというこ ともあるので、簡単に〈自然成長型文明〉のヴィジョンの話をしておきたいと思います。
  私がこういう発想に至ったのは、福岡正信さんという自然農法をやっていらっしゃる、エコロジー運動の世界 的レベルではすごく有名な方の影響です。この方は、耕さない、肥料をやらない、農薬をかけない、草を取らな い、それでも化学農法と同等、ときによってはそれ以上の収穫があがるという農法を確立していらっしゃるので す。私は、何回も農場見学に行って、実際に目で見て確かめました。イネやムギが雑草と一緒に生えていたり、 道端や藪の中にキュウリやトマトや大根が見事になっていたり、といった状況を目にしました。つまり生態系をま ったく壊すことなく、化学農法と同等またはそれ以上の収穫をあげる農法は確立されている、と私は認識してい ます。
  もしこれが正しいとすると、まずこの農法を世界全体レベルでやれば自然環境を壊さないでみんなが食べて いくことは大丈夫です。ほんとうにそんなことが可能かどうかを福岡先生に質問したときに、戦前の農業専門学 校(今でいえば農業大学)出身の方ですから、数値やデータもきちんと扱える方ですが、太陽の日射量とそれを 植物が地表に固定できる光合成の能力、そのうちどれくらいが食糧になりうるかという計算を全部やると、いち おう「世界全体で自然農法をやれば今の人口の倍まで大丈夫です」とおっしゃいました。それが八四年くらいだ ったと記憶していますから、二〇二〇年から二〇五〇年くらいの人口なら賄えるということです。
  しかし、そういうとすぐ出てくる反論は、「近代は、科学技術のお陰ですごく便利になっていて、この便利さを人 類が捨てられるわけがない」というセリフです。これに対しては二つの言い方ができます。まず、「捨てざるを得 ない部分と捨てなくてもいい部分にきちんと区別して考えたほうがいいのではありませんか」、それから、「捨て ざるを得ない部分まで、どうしても捨てたくないのなら、滅びるしかないようですが、それでも捨てたくないのです か」ということです。近代の利便性の中で、エコロジカルに持続可能な社会と抵触しないものは残せばいいので す。抵触・矛盾するものはやめればいいのです。エコロジカルに持続可能ということを主に、近代技術の利便性 は従にして、残せるものは残せばいい。原理だけいうと、話は簡単です。
  私は、「二十一世紀以後ずっと人類が生き延びていきたいのだったら、外面の形としては、自然農法をベー スにして、それにオルタナティブ・テクノロジーを加味した文明を創るしかない」と考えています。そして、少なくと もヴィジョンとしては、そういうヴィジョンを描くことができ、理論的には実行可能だというふうに私は考えていま す。


 修正自由主義から自律主義へ

  しかし、高度産業主義社会から自然成長型文明に転換するといっても、突然転換できませんから、まずは完 全放任自由主義型の市場経済・産業主義ではなく修正資本主義、修正自由主義経済に早めに移行する必要 があるでしょう。そして、やがて自らの内発的な自律的な欲求として自然成長型文明を選択するところまで行け るといいと思います。それを、私は〈自律主義〉と呼んでいます。
  自らの意思・内発性で自らを律するのを自律といいます。自由というのはほんとうはそういうことなのです。決 して自らを滅ぼしてしまうような欲望に駆られて身勝手にすることが自由ではありません。自らをも人をも生かす ことができるように、自らをすすんで律することのできる心のあり方を自律というわけです。
  これから人類は全体としては自律していかなくてはいけないし、その外面としては自然成長型文明であり、そ ういう文明を心の底から望む人々の文化と集団、つまり内面がそういう外面とちゃんと対応してできてくる。そう いう条件がそろったら実現可能だということです。この個人と集団の内面ができなかったら、外面としての持続 可能な世界―自然成長型文明もできないでしょう。いくらヴィジョンだけ描いても、「絵に描いたモチ」で、それを 実行・実現する主体がないのですから。
  「誰か、やるべきだ、やってくれ」と言っても、今社会の主導権を握っている方たちの大多数は、多分やらない でしょう。幕末―明治維新の勝海舟などのように、既成の主流にポストをもちながら、新しい潮流を理解し協力 するという方も少数ながらおられますから、希望はありますが、全体としては、残念ながらダメなようですね。


 欲望に関する三つの考え方

  最後に、実行の主体の問題をお話ししましょう。
  エコロジカルに持続可能な社会を創り出していかなければいけないという建て前をなかなか困難だと思ってし まうのには、いろいろな理由があるのですが、その中でも一つ大きな理由は、「人間の物質的な欲望というの は、基本的にはてしなく肥大していくものであるから、それを無理に抑えるのはできない話だ」と思い込んでいる ということです。社会の主導権を握っている人もそうだし、市民もそうです。みんなが「人間の欲望は、儲かれば もっと儲けたくなるし、贅沢すればもっと贅沢したくなるし、それはしょうがないことで、たとえ環境を破壊すると言 われても、それなら私のところの利益はそこそこに抑えますと言えないのが人間だ」と思い込んでいるがため に、先進国の市民やリーダーに「高度経済成長型の社会をやめられないのはしかたがない」と思っている人が 多いことです。
   しかし、ほんとうにそうなんでしょうか。ほんとうにはそうではない、と私は考えています。
  そこで考えてみたいのですが、人間の欲望について基本的に三つの考え方があると思います。
  第一は、「欲望ははてしなく肥大するものである」という考え方です。日本の主流の本音はこれでしょう。
  第二は、「欲望は抑制すべきであり、理性・意思によって抑制できるんだ」という考え方です。ほとんどのエコ ロジー派はこれです。
  しかし、実際の現場では欲望を抑えられない人のほうが多数を占めているので、なかなか実行できません。 自分の欲望を抑える気のある、一部の真面目な人だけが一生懸命努力をしますが、そこまで真面目になれな い人は抑えられなくて、全体としては抑えられない方向に走ってしまうというパターンです。こういう「不真面目な 人」対「真面目な人」という対立構造で、多数の経済成長派と少数のエコロジー派がにらみあってきたのが、こ の三十年の構造だと私は見ています。しかし、これではどうにもなりません。
  第三は、これが私の考えですが、「欲望はもともとは節度のある自然な欲求がゆがんで肥大化したもので、 治療できる」という考え方です。
  人間の欲望が、本質的に第一のようなものであれば、人類の未来についてはあきらめたほうがいいでしょ う。第二の捉え方では、自分はこう考えているにもかかわらず現実としてはそうなっていないという人類の全体と しての傾向の事実を理解・分析ができません。「欲望が抑えられないのは、理性・意思のトレーニングが足りな いからで、これからトレーニングをすればなんとかなります。知識を与えて、教育すれば、きっと自分で理性的に コントロールできるようになってくれるでしょう。そういうことをねばり強くやっていくと、だんだんみんなが賢くなっ て世の中が変わるでしょう」。こういった発想で、三十年変わらなかったということは、どうやって説明するのでし ょうか。「まだ、啓蒙不足・教育不足だからで、これを続ければ、やがてなんとかなる」と考えておられるのでしょ うか。
  私は、深層心理学を勉強してきて、「人間の心というのは、意思や意識よりもむしろ無意識や情動の部分の ほうが圧倒的に深くて強い」という考え方は、人間の本質をよくとらえていると感じてきました。つまり私たちの欲 望というのは、「なぜか、どうしても、そうしたくなる」ものです。「理屈ではわかっているんだけど、言われるとわ かっているんだけど、でもそうしたいんだ」というところがあります。いわば心の奥から湧いてきて、私たちを駆り 立てるというところがあると思います。理性は「やめたほうがいい」と言い、意思では「やめよう」と思う、でもやめ られないのです。
  ところが、こうした、人間の心には深層という部分があるということが、今教育の世界の常識にきちんとなって いませんし、まして国民的な常識にはなっていません。そこで、教育の場では、「人間の心というのは、教育して 教え込んだら、きちんと理性的になって、理性的な行動のできるような意思が確立できるはずなんだ」と思って、 いいことを一生懸命教えるのですが、教えても教えても必ずしも実行しません。それはなぜかというと、実行した くない心の奥の本能、深層に潜んでいるものがあるからだと解釈しないかぎり、説明がつかないのではないでし ょうか。
  深層心理学的な視点からすると、欲望というものは意識ではなくて無意識の領域に潜んでいて、意識に現わ れてきたり、あるいは潜んだままで意識を陰から揺り動かし操るものです。そのために、意識・理性・意思によ る直接的なコントロールが難しいのです。そのために、第一の捉え方のように、「はてしなく肥大していくもので、 どうしようもない」ように見えてしまうのです。また実際に、現象としてはとりあえずそうなのです。ですから、無意 識の問題をとらえないまま、一生懸命、欲望を理性や認識や意思でコントロールしようとするアプローチには、 もちろん意味はあるのですが、限界があると思うのです。それに加えて、「無意識をどうやって変えるか」という 発想が必要なのではないでしょうか。


 欲求と欲望を区別する

  そういう発想をするとき、非常に役に立つ仮説があります。あくまでも仮説ですが、学びはじめて十数年いろ いろな場面で、そうとうの妥当性があると感じてきたものですが、アブラハム・マズローというアメリカの心理学者 が立てた「欲求の階層構造仮説」という説です。これは日本では、ほとんど産業心理学的にしか使われておら ず、ほんとうの意味はよく理解されていないようですが、人間というものを考えるとき、非常に大きな意味がある と思います。
  簡単にご紹介しますと、マズローは「人間の基本的で自然な欲求は、ある種の階層構造をなしている」と言っ ています。




  いちばん基本的で低いところに生理的な欲求があり、それはいちばん基礎的なものだから非常に切実では あるけれども、それが満たされると人間はそれだけで満足できるかというとそうではなくて、満たされてしまうとそ れは大した問題ではないような気がしてきて、次に安全と安定の欲求が現われてくるのです。いわば、お腹がい っぱいでも、いつ殴られるかわからない状況にいたら、人間は満足できないということです。
  そして安全と安定が満たされていても、自分のことを愛してくれる親がいて家族の中で自分の所属の場所が あることへの欲求、つまり愛と所属の欲求が次に出てくるのです。どちらが優先度が高いかというと、安定欲求 のほうが優先度が高いのです。例えば、そうとう暴力的な親にでも小さな子どもはしがみついてしまうという現象 があるようですが、それは、やさしいかもしれないけれども知らないおじさん・おばさんのところに連れて行かれ るよりも、愛していない親の側でもそのほうがよく知った安定している環境だからなのです。それはともかく、安 全と安定が満たされても、それで人間は満足できるわけではなく、次には愛と所属の欲求が出てくる。
  では、愛され、所属する家族や集団があれば人間は満足できるかというと、それもそうではない。人間はある 年齢になると、心の中が見る自分と見られる自分に分かれていきます。自己イメージというものです。そのとき、 こちらから見ている私が、見られている私=自己イメージをOKと思う、承認する、自分が自分を認める。そし て、それを保証するように外からの承認もなされる。その両方の承認がなければ人間は満足できない。それを 承認欲求といいます。
  ところがさらに、人間の欲求は承認欲求まで満たされたら終わりかというと、そうではなく、さらに、この世に 生まれてきた、他の誰でもない、この私でなければできないことをやりたい。しかもそれを身勝手にするというの ではありません。この世に生まれてきたということは、他の人々の中に他の人々とともにこの世界に生まれてい るということですから、私のよく生きることと他人によい影響を与えることが一致したようなかたちで私がよく生き るというふうに生きたいという欲求が出てきます。それを自己実現欲求とよんでいます。
  ところが、いくら自己実現をやっても、人間は最後には死ぬのですから、それだけだとやはりむなしいので す。そうすると、この有限の死んでしまうような自分というものをさらに超えて、もっと永遠なるものに結びつきた いという自己超越欲求をもつのです。
  このように、自己実現欲求と自己超越欲求までもつようになっていく、それが人間の基本的な性質であるとい うものです。
  人間の自然な基本的な「欲求」というのは、英語で言うと need で、必要ということでもあるのです。そういう必 要・欲求には限度があって、例えば水を飲みたいと思ったとしても、ボトル五本持ってこられて「ぜんぶ飲め」と 言われても、飲みたくありません。一口か二口、のどの渇きが収まるくらいに飲んだらもういらないのです。それ 以上飲めと言われても、もう飲みたくないのです。
  このように自然な欲求には必ず限度がある、とマズローは言っています。そして、適当なときに、適当な程度 満たされると、欲求の階層構造はあがっていくというのです。自然の欲求は満たせば満たすほど高次の欲求に なっていって、高次の欲求はついには自己実現欲求、自己超越欲求にまで成長していくというのが人間の本質 であると、マズローは仮説を立てたわけです。仮説といっても、たくさんの臨床やさまざまなデータに基づいてお り、ただの願望の理論ではありません。十分なセラピーや臨床実験や統計調査があるのです。
  ところが、成長のプロセスで適当なときに適当な程度に満たされないというと、それへの無意識の固着・こだ わりが起こります。
  例えば、小さいときに十分に愛されないと、愛されるということに対して無意識の固着が起こります。ただ、子 どもは小さいときに親から愛されなくても、自分ではどうしようもありませんから、だいたい「私はどうせ愛されな い存在なんだ」とか、「愛されるということなんか問題じゃないんだ」というかたちで、愛されるという欲求を抑圧す ることによってなんとか耐えて生きるわけです。そうすると、大人になったときにほんとうには愛されたいのに、 「愛されっこないんだ」と思っていたり、「愛されなくてもいいのだ」と思っていたりするから、すねたり、攻撃的に なったりして、愛されるような行動がとれないわけです。そうすると当然愛されないのです。すると、欲求は満た されません。満たされないのだけれど、何が満たされないかわかっていないから、満たしてくれるその当のもの ではなくほかのものを求めていってしまうのです。
  例えば、承認欲求が満たされていないと、ほんとうは承認を受けたいのに、承認を受けられるような適切な行 動がとれなくなるのです。例えば非行も、理論的な説明だけであれば簡単にできます。人から注目されたい、認 めてほしいのです。自分でも自信をもちたいのです。それができないから、つっぱって、目立って、人の目を引 いて、悪さをするのですが、それではほんとうの社会的承認は得られませんし、自分でもほんとうに自信がもて ないので、いつまでたってもうまくいかないのです。ところが、どういう行動をすればきちんと社会的に承認を受 けられるか、大人の理性をもっていて考えればわかりきったことであり、そういう行動をすれば承認を受けられ るのです。承認を受ければ満足できるのです。承認を受けて満足すると、それにこだわらなくなるのです。
  くり返しますが、適時に適度に満たされないと無意識的な固着が起こります。そして、ゆがんでしまって、何が ほしいのか、どうすれば得られるのかがわからないままの――この状態のことを「神経症的欲求」とマズローは よんでいます――「神経症的な欲求構造」ができてしまいます。ノイローゼというのは、その原因が自分ではわ からないからノイローゼになるのです。こういう欲求も、ほんとうには何がほしいのかわからないまま正しくない 求め方で正しくないものを求めてしまうからうまく満たされないのです。しかし、基本的な欲求というのは、やり方 によってはっきりと意識化することができるし、そうすると意識的に適度に満たすことができるし、そうすると神経 症的な欲求構造は癒すことができるのです。
  つまり、「欲望」とよばれてきたものは、マズローの用語で言い換えると「神経症的な欲求」なんだということで す。そして、近代の経済的な物質的な繁栄――というよりも、むしろ感覚的な刺激といったほうがいいと思うの ですが――の追求の底に潜んでいるのは、感覚的な刺激を求めるために物質やお金がほしいという欲望=神 経症的欲求ではないでしょうか。基本的には物がほしいというより、物による刺激がほしいのです。なぜ刺激が ほしいかというと、むなしいからほしいのです。むなしくなくなるようにすればいいのに、むなしさを紛らわせるも のがほしいのです。ほとんどの余分な浪費消費は、むなしさをまぎらわせたいから、いらないものを買ったり使 ったりするのです。原理的には簡単です。むなしくなくなれば、いらなくなるわけです。
  近代の欲望の大部分のところは、過去に貧しい経験をしたために、生理的物質的な欲求に固着してしまった か、安定性に問題があったために、安全を守るために金がはてしなくほしいというふうになってしまったか、ある いは愛と所属が満たされなかったために、絶えず自分のまわりに人を引きつけておくことのできるような権力や 金がほしくなったか――承認されるためには日本では金持ちになればいいわけです。人生に生きがいがないと いっても、金があっていろいろと遊んでいればむなしさをだいたい忘れていられるわけです。自己実現できなくて も、金があれば日々気晴らしはできるわけです。
  ということは逆に言えば、基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物資的な富はそこそこ 必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです。これは仮説ですが、セラピーやワークショップ をやっていると、かなり妥当性のある人間観ではないかと思っています。
  従来の「意識的な学習と意思によって欲望を抑制する」というアプローチを全面的に否定する必要はまったく ないのですが、それだけではどうにもならない無意識の欲望状態を自然な欲求構造に変えることも原理的にい って可能であり、それが必要だということです。
  これを、どうやって私から始まって社会の文化にするか。これが問題です。また、そういう個人とそういう集団 がどうやって社会の主導権――まさにデーモス・クラトス――を握るか、ということが課題です。
  しかし、少なくともそういうふうに考えていくと、欲望を自然な欲求へと治癒することも、欲望を煽り立てるよう な社会を自然な欲求を自然に満たしていくような社会に変えていくことも、理論的に可能ですし、方法論もありま す。あと残っているのは、どれくらいみんなが実行する気になるかということだけだ、と私は感じています。


  野心に足をすくわれる危険をどう避けるか

  ここで、最初に言った結論をくり返しますが、以上のような四象限すべてを含んだ条件を調えることができれ ば、きわめて困難だけれども、持続可能な人類社会の実現の可能性はあるということです。そこで、私はサン グラハ心理学研究所を通じて、必要な条件について基本的な認識を確立し、それから広く合意を獲得し、それ からできたらそれを運動に高めていきたい、そういう運動のリーダーを育てる機関として総合学園も設立してい きたいと考えているわけですが、最後に、そういうことをしていく場合の、まわりの方たちが感じ、忠告してくださ った「危険」について、ここで、あえてお答えしておきたいと思います。
  まず何よりも、危険があることは事実だと私自身考えています。新しいことをすること、しかも集団でしようとす ることには、必ず大なり小なり危険がともなうものだからです。
  ふつうの人間(凡夫)には必ず、潜在的な自己実体視―自己絶対視の傾向――唯識でいえばマナ識があ り、マナ識に足をすくわれる危険がいつでもあります。そして、マナ識がある人間同士で事を始めると、マナ識 のぶつかりあいが起こり、マナ識の強い人間が力をもって他の人を支配することになる危険もたえずあるわけ です。そういう危険を単純に避けたいと思ったら、マナ識がぶつからないように、支配したりされたりしないよう に、いつも人と距離を取っておくしかありません。
  私の見るところ、ネットワーキングという方式は、そういうマナ識によるトラブルを最小限にとどめるためのな かなかよく考えられた工夫です。もし、ネットワーキング方式で、しかも社会の主権を握ることなしに、世の中を よくする、持続可能な社会を創出することができるのなら、それでいいのですが、くり返し言うように、この三十 年、それはできなかったところに問題があるのです。
  どんどん進行する環境破壊のデータを追いかけていて、「危険だ」と忠告してくださる方に、あえて問いたくな るのは、こういう大きな危険と、それをなんとかしようとして運動を起こすことの危険と、どちらがより大きな危険 なのでしょうということです。運動・組織という小さな危険を恐れて、進行している大きな危険を放置することは、 それこそおそろしく危険なことなのではないでしょうか。
  そうしたことを考えながら、私があえてある種の組織を始めているのは、以下のように考えたからです。
  ふつうの人間には、確かに志と野心(マナ識の働き)が混在しているものです。それは、善意の人でも避けら れないことです。善意自体、マナ識の働きですから。ですから、いっさい野心がなくなってからでないと組織や運 動を立ち上げてはいけないとすると、まずほとんど誰にもできないことになるでしょう。
  ところが問題は、環境破壊を進める組織や運動――あるいは社会システムといってもいいのですが――は、 すでに巨大なものが存在していて、現に働いているということです。止めようとするものがなければ、やがて崩壊 して、いやおうなしに止まるというところに到るまでは、止まらないでしょう。
  そこで、もし崩壊を止めるための組織や運動はやはり必要だとすると、どうしたら、そういう組織や運動の腐 敗を最小限にくい止めることができるかということです。私は、ふつうの人間がやることに腐敗ゼロなどというこ とがあるという、子どもじみた理想的な空想はしていません。そうではなく、腐敗・堕落を最小限、許容範囲にと どめることができるかどうかが問題だと思っています。
  そして、その外面的・システム的な保証は、まず構成メンバーについて徹底的に出入り自由にしておくことだ と考え、サングラハでは、長年その原則を貫いてきました。といっても、サングラハは、政治・経済も含めた、新 しい文明の創造のための人材育成を目指すもので、直接的に政治に関わる意思はありません。より政治的な 組織であれば、さらに指導者のリコール制も必要でしょうが、学びの一貫性ということからいうと、むしろ私塾的 に一つの方針を貫くほうがいいと考えて、合議―多数決制は採っていません。
  さらに、その内面的な保証としては、指導者もメンバーも、少なくとも自分の中の志と野心の混在に気づいて いることが必要ですし、限りなく志の部分を大きく、野心の部分を小さくしていくよう、自己成長を続けるという意 思も必要でしょう。私が何よりも力を注いできたのは、その点です。
  それでも、なお、未完成な人間がやっていることである以上、「おかしくなる危険」は残るでしょう。しかし私 は、自分も含めておかしくなる危険よりも、進行する崩壊を見過ごし、放置する危険のほうが、はるかに、限りな く大きな危険だと思い、あえて一歩を踏み出してきましたし、みなさんの参加もお誘いしているわけです。もちろ ん、そう聞いてもやはり危険を感じて遠ざかることも、まだ本格的に参加はしないけれど関心はもち続けていた だくことも、あえて危険を冒して本格的に参加していただくことも、どれもオーケーですが、できれば一人でも多く 本格的に参加していただきたいと切望しています。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所