布施と智慧の功徳の違い
では、はじめていきたいと思います。こんばんは。
今日は『金剛般若経』の学びの最終回で、テキストの一二六頁からです。
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須菩提よ、もし、菩薩にして、恒河の沙に等しき世界を満たすに七宝を以てして、布施したりとせん。
もしまた、人有りて、一切の法は無我なりと知りて、忍を成ずることを得たりとせんに、この菩薩は、前の
菩薩の得る所の功徳に勝れたり。
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ここでいったん区切ります。
ここでは、六波羅蜜の中の布施波羅蜜と般若波羅蜜・智慧波羅蜜の重さを喩えで表現しています。
ガンジス川の砂ぐらいの数の世界があるとして、それを七種類の宝で一杯にするぐらいの布施をしたとしよ
う、と。毎回申し上げていますが、非常に雄大というか誇大妄想的というか、インド的な大きなスケールの比喩
ですが、そのくらいの布施をしたとする。
それに対して、一切の法は無我ということを知っている人がいるとする。この「忍」というのは言べんのつい
た「認」と意味上は同じと言われています。つまり、これは忍ぶ・忍耐するということではなく、知的な認識も含
みますが、それだけでなく唯識でいう平等性智や大円鏡智というレベルまでの智慧を得るということです。そう
いう菩薩がもう一人いるとする。
その場合、山ほどというか宇宙ほど布施をした菩薩よりも、一切の法は無我ということを覚った菩薩のほう
が功徳が優れている、ということを非常に明快に語っています。ですから、一般的な仏教として言っても、やは
り布施波羅蜜をするよりも智慧波羅蜜を得ることのほうが、圧倒的に大切だということです。しかし実は、その
智慧波羅蜜から本当の布施波羅蜜が出てくるということではあるのですが。
それから確認ですが、ここに「一切の法は無我なり」と書いてあるように、無我という言葉は人間の話だけで
はなくてすべての存在ということに関わっている。つまり、「無我」とは「実体ではない」という意味であって、決し
て「私心がない」とか「自己主張が強くない」という話ではありません。ですから、ここで無我という言葉の大乗
仏教本来の意味として、「一切の法は無我」というのは空とほとんど同義語だということが確認できます。その
空・無我ということを覚ったとすると、それはどんな布施をした菩薩よりも功徳が優れているのだ、ということが
まずここで明快に語られているわけです。
菩薩は富や幸せにこだわらない
その続きですが、
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須菩提よ、もろもろの菩薩は福徳を受けざるを以ての故なり。須菩提、仏に白して言う、「世尊よ、い
かなれば菩薩は福徳を受けざるや。」「須菩提よ、菩薩は、作す所の福徳に、まさに貪著すべからず。こ
の故に、福徳を受けずと説けるなり。
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福徳とは富と言ってもいいし幸せと言ってもいいのですが、菩薩は一切の存在が空・無我と覚っていますか
ら、そもそも幸・不幸とか損・得とかという分離的、分別的な認識をしません。ですからそういう意味で、不幸を
捨てた幸せ、損を捨てた得だけを得ようとは思わないのが菩薩だということですね。
スブーティはわかっていて問うわけですが、「菩薩が福徳を受けないということの意味はどういうことでしょう
か」と。相対的に言えば区別できるという意味での、幸・不幸とか損・得はもちろんあるわけですが、すべて空
かつ一如ですから、それに対して「私のもの」というかたちで貪ったり執着するということは、そもそも成り立ち
ません。心理的には成り立ちますし、それから一時的にそれができるかのように見えます。しかしどんなに貪り
どんなに所有したつもりでも、その所有者自体が死んでいなくなるのですから、絶対的・永続的な意味での「所
有」などというものは世界の中では成り立たないのです。
しかし私たち一般の人間は、自分の人生が有限であることを計算外にしていますし、そして時々刻々と過去
になり未来はまだ来ない今・今・今という瞬間を、ある一定期間宇宙から預けられるだけ、とは思っていないも
のですから、人生の大部分をあくせくと儲けることや幸福になることに費やして、その費やしている時間は実は
心は全然幸せではないというか、さわやかではない。
(『サングラハ』132号、4・5頁より抜粋。以下誌面に続く。)
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