会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。
2024年11月25日発行、全頁、A5判、700円
目次
■ 巻頭言 …………………………………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(5) ………………………………………岡野守也 … 3
■ サンカーラの発見(2) …………………………………………………………羽矢辰夫 … 16
■ ウィルバーが描く未来の仏教
――Integral Buddhism and the Future of Spiritualityを読む(1) ……増田満 … 18
■ 【サングラハ&ヒューマン・ギルド共催ZOOM企画】のご案内 ………森哲史 … 27
■『サングラハ』に入会して(2) ………………………………………杉山喜久一 … 29
■ サングラハと私(13) …………………………………………………………三谷真介 … 33
■ 講座・研究所案内 …………………………………………………………………………………… 43
巻頭言
研究所主幹代理 高世 仁
世界はこれからとんでもないことになりそうだ。
アメリカ大統領選挙でトランプ候補が圧勝し、次期政権を率いることが決まったときの私の思いです。
人間活動による温暖化を「信じない」と公言するトランプ氏は、気候変動対策の国際的枠組み「パリ協定」から再離脱するでしょう。「二十四時間以内に停戦させる」というウクライナや、イスラエルによる掃討作戦を「仕上げるべきだ」とするガザでは、国際人道法が完全に無視される事態も予想されます。
私は昨年、戦争下のウクライナを訪れ、市民や兵士の置かれた状況を見てきました。前線では物量に勝るロシア軍の攻撃を兵士らが懸命に食い止め、市民がカンパやクラウドファンディングで武器や必要な装備を調達して部隊に届けていました。音楽家やコメディアンも前線の兵士を慰問するなど、市民一人ひとりが得意な技能や可能な活動で祖国の抵抗戦争に貢献しようとしていました。
私はこの旅で、「ここが日本なら、あなたははどうするのか」との問いを突き付けられたように感じました。
もし他国から侵略されたら「あなたは進んで自国のために戦いますか」と七十七の国・地域で調査したところ、全体では「はい(戦う)」が64.4%、「いいえ(戦わない)」が27.8%でした。日本は「はい」が最下位でわずか13.2%、「いいえ」が48.6%と各国のなかで突出しています。また、「わからない」が38.1%と、これも世界一。国の運命など自分とは「関係ない」ということなのでしょう。日本では「愛国心」が戦前の軍国主義を想起させるとして忌み嫌われてきました。しかし私たちは、このままの価値観で、混迷の時代を生きてよいのでしょうか。
ウクライナで驚いたのは、市民が自発的にロシアへの抵抗を続けていたことです。ある青年は私に「政府なんかあてにしないで、祖国に自分のできる限りの貢献をする」と言いました。彼にとって祖国とは「政府」ではなく、自分と家族や友人、愛する郷里と同胞、そこに根付く文化や伝統のすべてを意味します。人々は祖国のために生きることに、さらには祖国のために死ぬことにも意味を見いだしていました。
私たちにとって「国」とは何か。
ウクライナで私は、日本人のコスモロジーに関する大きな「宿題」をもらったように思います。
『正法眼蔵』「梅華」巻 講義 5
研究所主幹 岡野守也
すべては一瞬一瞬に新しい
原文
先師古仏、歳旦上堂曰、「元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅開早春《元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏して惟れば大衆、梅、早春に開く》」。
現代語訳
先師如浄禅師は、年の初めの上堂で言われた、「新年の喜びを述べたい、万物はことごとく新たである。伏して思うに、修行者諸君、梅は早春に開く」と。
この「梅、早春に開く」という漢文書き下しは、参考にしたテキストをいちおう踏襲したものですが、後の解説からすると、道元さんはたぶん「梅、早春を開く」と読んでいらっしゃいます。「梅、早春に開く」だと当たり前のことですね。ところが、「梅は春の早い時期に咲く」のではなくて、「梅が春をもたらす」というのです。つまり「花開いて、世界が起こる」ということです。
原文
しづかにおもひみれば、過現当来の老古錐、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ「梅開早春」の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。ひとり先師古仏のみ古仏中の古仏なり。
現代語訳
しずかに思ってみるに、過去・現在・未来の高齢で力ある修行者がたとえ全世界から解脱したとしても、いまだ「梅は早春に開く」という言葉がなければ、だれが汝を道を究め尽くした人間と言うだろう。ひとり先師古仏だけが古仏中の古仏である。
「しづかにおもひみれば」とありますが、これは瞑想的に思索するということです。
「老古錐」の「錐」はキリのことで、ここでは無明を貫いて覚りを開く修行者の意味で使われています。それも尖ったキリではなくて、修行をし抜いて先がなまってしまったような、つまり覚りの覚りくささがなくなってしまった、高齢で非常に力のある熟した修行者のことを「老古錐」と言っています。
「尽十方に脱体なり」とは、「全世界から解脱した」ということで、過去・現在・未来、そうしたいろいろな修行者たちが全世界から解脱したといいます。しかしこの「梅が早春を開く」という言葉を語れないようであったら、覚りを究め、道を究め尽くしたとは言えない。この「道尽箇」の「道」は、道の意味だと読むほうがいいと思います。
そしてここまで、つまり「梅の花が世界を開き、早春を開く」ということまで言い得たのは、如浄禅師だけだと。
原文
その宗旨は、梅開に帯せられて万春はやし。万春は梅裏一両の功徳なり。一春なほよく「万物」を「咸新」ならしむ、万法を「元正」ならしむ。「啓祚」は眼晴正なり。万物といふは、過現来のみにあらず、威音王以前乃至未来なり。無量無尽の過現来、ことごとく新なりといふがゆゑに、この新は新を脱落せり。このゆゑに「伏惟大衆」なり。伏惟大衆は恁麼なるがゆゑに。
現代語訳
その言われた趣旨は、梅の開花に引き連れられてはやくも世はすべて春である。世の春は梅の中にある一つ、二つの効力による。一たびの春でさえよく万物を新たにし、すべての存在を根本的かつ正しくするのである。喜びを述べるとは眼が正しいことである。万物というのは、過去・現在・未来だけでなく、〔法華経で無限大カルパの過去に出現していたという〕威音王以前かつ未来である。量り知れず尽きることのない過去・現在・未来のことごとくが新たであるというのであるから、この新たさは新たさを超越している。このゆえに「伏して思うに修行者諸君〔もまた〕」ということになる。伏して思うに修行者諸君も同じ〔く新た〕であるからである。
この如浄禅師が言われた趣旨は、「梅の花の開花に引き連れられて、早くも春がやってきた」ということだと。つまり、梅の花と春の一体性を梅の花のほうから見ると、梅の花が春をもたらしたことになります。
そして世はすべて春ですが、その梅の花の一輪・二輪の中にある働きが、この世の春をもたらしていると言います。
この一たびの春がすべてのものを新たにし、そしてすべてのものを根本的かつ正しくします。「元正」とはもともとは元旦という意味ですが、ここでは「根源的に正しい」と、より深い意味に読んでいると思われます。
そこで「喜びを述べる」とは、例えば元旦であれば、元旦のまさに今このときに、宇宙が実現しているそのことを、正しい覚りの眼がはっきりと「喜ばしい」と言うことです。それが新年の挨拶の本質なのですね。
そして、「万物」というのは有です。それから過去・現在・未来は時です。それが一体なのです。この「威音王」とは、無限大カルパの過去にすでに出現したと言われている、『法華経』に出てくる威音王仏という仏さまです。したがってここでの過去と未来は、永遠の過去そして永遠の未来のことです。それが一体なのですから、永遠の未来・永遠の過去と万物は一体だということになります。
量り知れず尽きることのない過去・現在・未来、それがことごとく一瞬ごとにすべて新である。そのことが新たさの本質なので、この新たさは分別知でいうところの新たさを超越しています。
よく考えてみると、過去はもはやないし、未来はまだ来ていない。しかし今は無常で刻々と現象が変化していくわけですから、一瞬一瞬が、すべての一瞬が新たなわけです。
その一瞬一瞬が新たなことの節目に、新年という時が到った。だからおめでたいということになるのだと。中国の正月は、日本の太陽暦の一月一日ではなく中国暦の一月一日ですから、ついこの間、まさに梅が咲く頃です。
そのおめでたい時に、例えば梅が一輪咲く。すると、そのことによって春がもたらされると言ってもいいような、梅の花と万物の一体性が、そこに梅の花が咲くという形で表現・実現していることになります。
しかし、梅一輪が咲き始めた正月、万物が新たなりとは、実は一瞬一瞬が全部そうなのです。それを私たちは、十二月二十何日などと年がだんだん古くなってきたように分別知で思うので、区切りをつけてここから新年として「おめでとうございます」と祝います。けれども、実は一瞬一瞬が全部、「新年おめでとう」なのです。
万物がその時その時に「ことごとく新なり」と静かに「惟みれば」、つまり坐禅的に瞑想・思索すると、すべては一瞬一瞬新しい。だからこの新しさは、ふつうに言う新しさを超越している新しさなのであり、ということは修行者諸君も、同じく一瞬一瞬新たに存在しているのだと。
これは元の漢文の意味を道元流に読み深めているというか、悪く言えば読み曲げています。「伏惟大衆」とは、もともと「伏して惟みれば、大衆・修行者諸君よ」と分かれる言葉なのですが、道元さんは「伏惟大衆」と一つの熟語のように理解しています。
よくよく思うと、どの一人一人もまさに今・ここ・宇宙の、新たに実現している存在なのだ。修行者諸君も、同じくまさに一瞬一瞬、新たに宇宙の現われとして存在している。だから、一瞬一瞬存在していることがめでたいのだ。したがって今日だけがめでたいのではなくて、実はいつもめでたい。けれども区切りで、「新年おめでとう」と諸君に申し上げるのだ、と。
ここでは「万物は実はいつも新たなのだよ」というお説法をされたのであり、こうしたお説法は如浄禅師でないとできないというのが、道元さんの思いでした。ふつうのお坊さんは、「一年三六五日いろいろなことがあって、だんだん悪いカルマで汚れて古くなっているので、ここで一回すべてをないことにして、年を忘れ、ここから新たにしよう」というようなことしか言えない。新年のご挨拶でも、如浄禅師のようにできる方はなかなかいらっしゃらないだろう、とここで述べておられるのです。
(以下、本誌にて掲載)
編集後記
本年最後の会報、主幹の正法眼蔵・梅華講義録は、巻の終盤に差し掛かっています。道元禅師が如浄による説法をさらに読み込み展開している箇所で、師への深い敬意とともに、弟子を育てる意気込みが感じられます。道元禅師が見ている梅の花は私たちの見る梅の花と同じですが、仏国土=宇宙との一体性を深く体験した覚りの眼には、梅の花一輪が世界の春の訪れと一体であり、宇宙の働きそのものだと見えていることが、片端なりともわかる思いがします。「万物咸新」という宇宙的な新しさがあることを知り・感じつつ、私たちとしては時の区切りとして、よりよい新年を迎えたいものです。前号スタートの羽矢先生の「サンカーラの発見」では、サンカーラによって形成された、私たちの心の根源的な自己中心性が問われています。今号から、ウィルバーの新しい仏教理解の書(未邦訳)について、増田さんの紹介書評が始まりました。ご期待ください。杉山さんのご寄稿では、心の学びには各人の体験こそ重要であることが語られています。会員の森さんから、ヒューマン・ギルド共催ZOOM企画の案内をいただきました。ぜひご参加を。 (編集担当)
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