会報誌「サングラハ」第196号(2024年7月)について

会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。

2024年7月25日発行、全頁、A5判、700円

目次

目次

 ■ 巻頭言 …………………………………………………………………………………………………… 2
 ■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(3) ………………………………………岡野守也 … 3
 ■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(10) …高世仁 …… 14
 ■ グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
  ――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(11) ………増田満 …… 23
 ■ 私のサングラハでの学び(6) ………………………………………………毛利慧 …… 31
 ■ サングラハと私(11) …………………………………………………………三谷真介 … 33
 ■ 講座・研究所案内 …………………………………………………………………………………… 43

巻頭言

研究所主幹代理 高世 仁

猛暑が続きますが、いかがおすごしでしょうか。 

アメリカの大統領選挙を世界中が注目しています。
私はトランプ氏に高い支持が寄せられることを不思議に思っていました。先日、金成隆一『ルポ トランプ王国』とその続編(岩波新書)を読み、トランプ支持が厚い地域の人々の本音からその理由が見えたような気がしました。

工場が他国に移転してさびれたかつての製造業の中心「ラストベルト」では―
「(民主党の)『もう両手を使う仕事では食べていけない、教育プログラムを受け学位を取りなさい、パソコンを使って仕事しなければダメだ』そんな言葉にうんざりなんです」
グローバル化で激変する社会のなかで落ちこぼれる不満を吐露していますが、同時に、宗教にもとづく伝統的なコミュニティへの郷愁も聞こえてきます。 
「(五十年代までは)街全体にモラルがあった。公立学校では聖書をきちんと教えていたので、みんな勤勉で、礼儀正しくて、犯罪も起きない。外出時も就寝時も自宅にカギを掛けたことなどない。他人の子でも自分の子どものように大人がしつけをしていた。」
南部の敬虔なキリスト教徒からは―
「(リベラル派が裁判を起こして)お祈りを学校から追放してしまいました。それ以降です。アメリカ社会が変わり始め、ついには『メリー・クリスマス』も言わなくなった。(略)店は誰をも喜ばせる必要があるので『ハッピー・ホリディ』と言うようになった。」「私たちの長年の習慣を変えてしまった。習慣を変えることはキツイ。誰でもそうでしょう。」「『モーゼの十戒』の石碑も公共施設から撤去されました。この国で何が起きているか理解できません。」

こうした不安に駆られ、古き良きアメリカの再来をトランプ氏に託す人々が少なくないのです。民衆の日々の人生の支え、倫理の根っこをめぐる混迷が、世界の政治までをも奥深いところで動かそうとしているように見えます。
岡野主幹は、現在は宗教的コスモロジーが崩壊しつつある人類史の画期にあると指摘しています。アメリカの事態は日本にとっても他人事ではありません。
新たなコスモロジーの学びと普及を急がなければと思うきょうこの頃です。

『正法眼蔵』「梅華」巻 講義 3

研究所主幹 岡野守也

梅の花を因縁にして語られる覚りの核心

原文

しかあれば、いまこれを見聞せんときの晩学おもふべし、自餘の諸方の人天も、いまのごとくの法輪を見聞すらん、参学すらんとおもふことなかれ。「雪裏梅華」は一現の曇華なり。ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼晴を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。而今すでに雪裏の梅華まさしく如来眼晴なりと正伝し、承当す。これを拈じて頂門眼とし、眼中晴とす。さらに梅華裏に参到して梅華を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。これすでに天上天下唯我独尊の眼晴なり、法界中尊なり。

現代語訳

そうであれば、今これ(如浄禅師の教え)を見聞きする後学者はよく考えてみるべきである。この他の諸方の人間・天人も、今のように真理の教えを見聞きし、参学しただろうと思ってはならない。「雪の中の梅の花」とは一たび現われた白蓮華〔のようなもの〕である。日頃何回も我が仏・如来の正法の核心を拝見しながら、いたずらに〔霊山で釈尊が〕瞬きをされたのを見過ごして〔迦葉のように〕微笑むことをしなかった。〔ところが〕只今すでに雪の中の梅の花が如来の覚りの核心であることが正しく伝わり、うなずくことができた。これをよく検討して頂きの眼とし、眼の中の瞳とすることができた。さらに梅の花の本質に参入して梅の花を究め尽くせば、さらに疑うべき因縁はもはややってこない。これはすでに天上天下唯我独尊の核心であり、真理の世界でもっとも尊いものである。

それだけの方なので、今如浄禅師の教えを―道元禅師を通じて―見聞きすることのできる「晩学」・後学者、すなわち後から学んでいく弟子たちは、よく考えてみるべきであると。
「かつてもいろいろな人間や天人が、如浄禅師や道元禅師がされるような、真理の教えを見聞き学ぶことができただろう」と思ってはならない、と言うのです。
「雪の中の梅の花」というこの説法は、そこら辺で咲いている梅の花ではなくて、仏さまがこの世に現れたときにたった一回だけ現れて咲いたという、白蓮華と同等なのだと。
しかし一瞬一瞬がまさに有時、あるいは花開いて世界が開くという時なので、私たちが生きていれば、ある意味でいつでもそういう真理に出会うことができる側面もあります。日頃、何回も仏・如来の真理の教えの核心を拝見しているはずなのです。
しかし、日々生きて見聞きしているのだけれども、いたずらに釈尊の瞬きを見過ごし、そして迦葉のように微笑むことをしない。
お釈迦さまが、自分の教えの究極のところは実は言葉にならないものだということを示すために、手に持った蓮の花を拈ってニコッとされた。すると弟子の摩訶迦葉がそれを見て、ものも言わずにニコッとした。そこで、言葉を越えた以心伝心という仕方で、心を以て心に覚りが伝えられた―これは禅の伝承で、歴史的にはたぶん違うでしょうけどね。
ですからお釈迦さまの覚りの核心は、たくさん残されたお経にあるのではなくて、むしろ言葉にならないと。それで、あえて蓮の花をちょっと拈ってニコッとされた。そして瞬きをされたことになっています。お釈迦さまもウィンクしたのでしょうか(笑)。それとも両目をこうパチッとされたのでしょうか。
そうしてニコッとされたのに対し、迦葉さんもニコッとしたと伝えられています。
つまり、例えば梅の花が咲き、実がなり、あるいはそこに水が流れ日が照り、また例えば何日かに一回自分の頭をきれいに剃るとか、風が寒くて鼻が痛くなるとかという、そのすべてのことが、覚りがきちんと伝わるきっかけになり得る。それなのに、ふだん人々はそれを全部通り過ぎてしまっているのです。
ところがただ今、雪の中で梅の花が咲くということが、如来すなわちゴーダマ・ブッダの覚りの核心なのだと、正しく伝えてもらえたと。

(以下、本誌にて掲載)

「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー 10

交流会員 高世 仁

 私の甥っ子で、落ち込みがちな高校二年の男子、宙くんに、伯父の私がコスモロジーを語っていくという設定です。
・・・・・・・
 宙くん、こんにちは。暑いねー。去年は日本の観測史上、最も暑い夏だったらしいけど、今年は去年と同じか、もっと暑くなるそうだよ。どう、元気だった?
 あれ、浮かない顔してるね。どうしたの?
 高校に行きたくないって。理由は? そうか、クラスでいじめがあって雰囲気が悪いのか。宙くんは率先してやめさせる勇気がなくて、自己嫌悪になってしまうんだね。毎日が憂うつで食欲もないのか。落ちこんじゃってるんだね。
 クラスのいじめをどうするかは、こんどじっくり相談に乗るとして、きょうは、人はなぜ悩むのかを考えてみよう。

人はなぜ悩むのか―二十の随煩悩

 悩みごとっていやだよね。でも、ふつうの人はみんな、いやでも悩むようにできてるんだってさ。
 仏教では、悩みを「煩悩」と呼んで、ふつうの人間の心に浮かぶ主な悩みを二十種類の「随煩悩」にまとめている。宙くん、自分にあてはまるかどうか、考えながら聞いてくれるかな。はじめるよ。

 ちょっと嫌なことをいわれた、されただけでも、すぐ腹が立つ(忿)。腹が立つだけではなく、根にもって、忘れられない、許せない(恨)。
 でも、自分のやったことならごまかし、隠して、すぐ忘れられる(覆)。自分のこととなると、ちょっとしたことでもウジウジ悩むけど、ひとには無神経に、ときには意図的に悩ませたりする(悩)。
 ひとが幸せなのを見ると、「いいなあ、どうしてあいつはああで、私はこうなんだ、クソッ」と、嫉み心が起こる(嫉)。いいものを余るほどもっていても、惜しくて人にはあげたくない(慳)。
 自分を有利にするためなら、人をだますし(誑)、自分が弱いと、強い人にすぐゴマをする(諂)。自分の気にいらない人は、イジワル、イヤミ、皮肉などなど、嫌な言葉や表情や態度や、もっとひどくなるとナイフ・ピストル・爆弾という暴力まで、ありとあらゆる方法で傷つける(害)。
 そのくせ、自分は一人前だ、りっぱだ、これだけもってる、こんなことができるとエラソーで(?)、そういう自分を振り返ることもなければ(無慚)、世間に恥ずかしいとも思わない(無愧)。
 ちょっとでもいいことがあればすぐルンルン(掉挙)、ちょっとイヤなことがればすぐガッカリ(?沈)。さらに加えて、何を知り、何を信じ、何をやるべきかは、ちっともまじめに考えない(不信)。
 「そんなこと、めんどくさい」と怠ける(懈怠)、なんでも「なんとかなるさ」といいかげん(放逸)、ごくたまに「これは大事なことだな」と学んでも、すぐ忘れる(失念)。
 あれが楽しそう、これもおもしろそう、ああしようか、こうしようか…と気が散って(散乱)、何が正しいことか、知らないどころか知ろうともしない(不正知)…。はい、ここまでで二十。

 ぼくはこれ、全部あてはまってしまって、がっくりきちゃうな。宙くんはどうかな? 苦笑いしてるけど、やっぱり、自分に当てはまるんだね。
 ぼくたちだけじゃなくて、ふつうの人はみんな、こういう煩悩を持ってると、仏教では言ってる。どうしたら煩悩を脱してさわやかに生きられるんだろうか。

(以下、本誌にて掲載)

編集後記

 今回の一九六号、主幹の『正法眼蔵』「梅華」講義は第三回目で中盤に差し掛かっています。「雪いっぱいの大地に梅の花一輪」を契機に、道元による大乗仏教のコスモロジーが展開されている箇所です。原文の表現は現代の私たちにとって難解ですが、今回も現代科学のコスモロジーを交えた解説により、むしろ現代人だからこそクリアにわかる内容になっていて、私たちの分別知から、道元による無分別後得智の境地を垣間見ることができます。高世さんの高校生に語るコスモロジー、最終回は人間の存在する宇宙的意味についてです。増田さんは、著名なハラリによるヒトの内面象限の洞察について、前後2回に分けて取り上げられています。毛利さんは、人生における唯識実践を現在進行形で報告されています。羽矢先生は今回も休載で、次回から新連載で再開される予定です。 (編集担当)

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